最近ベランダを出るとジャスミンの香りをしてくる。
そのジャスミンを見ようとすると、ベランダから首を出すとみかんの木も見え、そのみかんの花も白い蕾が膨らんでいる。
ならば、畑の方にあるシークワーサーもそうであろうと見に行くとみかんとは少し違った小さく丸い蕾があちらこちらに付いていた。
今年は鈴生りに身を付けてくれるのだろうと嬉しくなった。
今から収穫時には自慢げにシークワーサーを家に来た友達にあげることを考えると含み笑いとともに二度美味しいのであるが、きっとそれはこれから三度四度と美味しいと思う私がいることに違いないことも容易に想像できてしまう。
小さい畑にではあるがそこにはえんどう豆の白い花とのらぼうの黄色い花が風に気持ち良さそうに揺れている。
温かな陽射しに祝福されながら、平安の時がそこに流れているようで私はぼんやりとそれに魅了された。
土曜日と日曜日、私は近所の山口のおばあちゃんの通夜と告別式の手伝いを石坂に頼まれてした。
山口のおばあちゃんはあっと言う間に散った桜のように、元気だった記憶だけを私たちに残して旅立ったようである。
十分に生きた死はそれだけで尊い、しかし、それは生の長さには関係がない、どの死も尊きものである、花は散らなければ、また咲くこともないのだから。
そう思えない人たちもいるだろう、ならば、どうすれば良いのだろうか。
マザーは言っている「苦しみや困難がやって来るのは、あなたが誠実に生きていることの証しです」と。
フランクルは言っている「人間にとって重要なこと、人生においてとても重要なことは正しく悩むことである」と。
私は思う、祝福は常に与えたくてしょうがないとあり続けていると。