この時期のあんとの散歩は格別に気持ちが良い。
私は新緑を眺めたり、それに触れたりするのが好きだからであり、その森林浴は温泉と似たような効能をきっと私に与えているようだ。
あんなに待っていたのにあっと言う間に逃げ足早く花吹雪となった桜が舞う頃、三沢川には海から遥々登ってきたマルタウグイが現れる。
いつもいないマルタウグイの姿を確認すると自然と私の口角があがり、あんにはちょっと待っていてもらってしばらく川の中を眺めるのである。
最近は浅瀬で田をならすように砂場を全身でならし、二匹寄り添い産卵をする姿も嬉しくなって眺めている。
彼らは産卵を終えるとさよならも言わず、いつの間にか姿を消すのである。
そして、次に海からやって来るのはアユである。
これも私にとって楽しみの一つである。
今日もホトトギスの声を聴いた。
実は恥ずかしい話ではあるが、私はホトトギスとはキリギリスの仲間でないかとずっと思っていた。
鳴かずなら鳴くまで待とうとか言うのだから、籠の中のキリギリスらしきホトトギスが鳴くのを見ながらじっと待っているのだと勝手に思い込んでいた。
なぜなら敵対する武将を追い込み、落城をするのを眺めながらうたったものなのだから、春先から山のどこかで鳴く鳥ではないと思い込んでいたのである。
でも、今ではその鳴き声も分かるようになると古の人たちから愛されていたさえずりを私も愛する一体感を味わう楽しみが生まれて来た。
私はまだまだであり、まだまだ知らないことが多い、きっとまだまだのうちに人生を終えるのかも知れないが、それまで知る楽しみを持ち続けあること、成長し続ける喜びは無くなることはないと言う明日を知るとまたほっとするのである。
知らなかったことを知った私はそれ以前の私と同じではない、でも、いつかそれを忘れることもあり、また忘れることも必要であり、そんな曖昧なことをも私が私であることを成しているのだとつくづく思うのである。