とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」629 りんごの花咲く町

2019-04-28 00:58:51 | 日記
何と、こういう映像があったとは。感激です。「愛染かつら」の主人公の名前を貰ったんですね。いや、ほんとに相応しいお方です。・・・昭和ですね。


りんごの花咲く町



高石 かつ枝(たかいし かつえ、1946年(昭和21年)7月18日‐)は昭和期の歌手。本名伊藤 宏子(旧姓山崎 宏子)。


来歴

神奈川県横須賀市出身。

幼少の頃より童謡歌手としてテイチクで活躍し、1960年(昭和35年)より万城目正歌謡音楽院で本格的に歌謡曲を勉強した(ちなみに、万城目正は、高石のデビュー曲「旅の夜風」の作曲者である)。また、小学校5年生のとき、ある服飾雑誌の少女ファッション・モデルに応募して合格、このときの合格者の中に、小学校4年生だった和泉雅子がいたという。

1962年(昭和37年)、松竹「愛染かつら」の再映画化に際し、ヒロインの名前をとった歌手「高石かつ枝」募集に合格。同映画主題歌「旅の夜風」で日本コロムビアからデビュー。この後、同曲でコンビを組んだ藤原良と数枚のデュエット曲をリリースしている。
1963年(昭和38年)、白川由美主演の東宝映画「林檎の花咲く町」に女子高校生の役で出演し、人気を確立した。彼女が歌う同名の主題歌もヒットし、年末の第14回NHK紅白歌合戦に初出場した。

この年、華々しくデビューした舟木一夫が学生服で出場、高石かつ枝もセーラー服で出場して話題になった。 この第14回紅白は映像が現存し、高石の歌唱シーンも含め全編がNHKBS-2で再放送されている。
この年、十和田湖の乙女の像の完成にちなんで作られた詩人・佐藤春夫による「湖畔の乙女」のレコード化が10年目にして企画され、高石かつ枝によりレコーディングされた。佐藤春夫自ら指導するなど、コロムビアも力を入れた企画であったが、高石のクラウン移籍問題で中絶。その後、「湖畔の乙女」は、本間千代子によりリリースされた。又、舟木一夫とのデュエットで「東京新宿恋の町」もレコーディング予定されていたが、同移籍問題で中止となり、結局舟木一夫単独で吹込まれ1964年(昭和39年)4月コロムビアより発売されている。

1964年(昭和39年)2月、北島三郎、五月みどり、小林旭、守屋浩らとともに新興会社・日本クラウンに引き抜かれて移籍。日本クラウン在籍の1年余の期間に16枚のシングルをリリースした。これは、同年デビューした西郷輝彦のシングル発売枚数を上回り、北島三郎と並ぶ実績である。だが、1965年(昭和40年)6月、当時政財界をゆるがせた疑獄事件吹原産業事件の渦中にあった吹原社長から自宅の提供や宝石の贈与、レコード5000枚の買い取りなどを受けていたことが発覚した。6月23日、日本クラウンは契約破棄を通告し[7][8]、高石は一時芸能界から追放された。

その後、テイチクに移り1965年(昭和40年)11月から1968年(昭和43年)9月にかけて十数枚のシングルをリリースしたが、目覚しいヒットには恵まれなかった。1968年(昭和43年)、設備機器メーカー(現株式会社チャンピオン)の御曹司だった伊藤祐吉と結婚、芸能界を引退した。伊藤はプロ野球の王貞治の早稲田実業学校時代の同級生で、彼女のショーにゲスト出演した王の仲介があったといわれている。

長いブランクを経て、1980年(昭和55年)に「女絵」を、また、1984年(昭和59年)に中国残留孤児を歌った「風の子守唄」をコロムビアから出している。(「Wikipedia」より)