とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 582 本田美奈子. - Oneway Generation

2018-12-18 17:14:15 | 日記
この溌溂とした姿を見るにつけても、運命の哀しさを痛感します。ありがとう、ありがとう、ありがとう、・・・何回叫んでも・・・。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


本田美奈子. - Oneway Generation



本田 美奈子.[註 1](ほんだ みなこ、1967年(昭和42年)7月31日 - 2005年(平成17年)11月6日)は、日本の歌手、女優、声楽家。80年代アイドル。本名、工藤 美奈子(くどう みなこ)。 身長:162 cm、体重:43 kg、B:74 cm、W:56 cm、H:76 cm。血液型はO型。1985年、シングル「殺意のバカンス」でアイドル歌手としてデビュー。1990年代以降は主にミュージカルで活動した。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦する。


生涯

アイドル歌手としてデビュー

1967年(昭和42年)7月31日午前11時17分、東京都板橋区上赤塚町(現:成増)の成増産院にて、体重2860gで生まれ、ラジオの全国放送のその日生まれた新生児を紹介するコーナーで取り上げられる。家族は東京都葛飾区柴又に在住していたが、幼いうちに埼玉県朝霞市に移住し、朝霞白百合幼稚園に入園した。以来、生涯の大半を朝霞市で過ごした。

歌手になる事を夢見ていた母親の影響で、美奈子も幼い頃からいつも歌を歌っていた。朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。朝霞市立朝霞第一中学校3年生の時に『スター誕生!』のオーディションを受けた。14歳で出場したテレビ予選では柏原芳恵の「ハロー・グッバイ」を歌い、見事合格して決戦大会へ進出した。この時の出場者の5人の中には松本明子と徳永英明がおり、3人とも決戦大会へ進んでいる。15歳を迎えて出場した決戦大会では松田聖子の「ブルーエンジェル」を歌った。しかし、プロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった。

1983年(昭和58年)4月、東京都北区の東京成徳短期大学附属高等学校に入学。同年7月に初めて原宿を訪れた際に、少女隊のメンバーを探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。前述の『スター誕生!』の決戦大会にはボンド企画のスタッフも参加していたが、その時は指名をしていなかった。社長の高杉敬二とはボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなった。中原めいこのヒット曲『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』をデモ音源で聞き、才能がある歌いっぷりから、この子はソロで売り出そうと決めたそうである。

高校2年生の1984年(昭和59年)9月に第8回長崎歌謡祭に本名で出場し、「夢少女」(作詞:深田尚美、作曲:安格斯)という楽曲を歌ってグランプリを受賞。このことがレコードデビューのきっかけとなった。
1985年(昭和60年)4月20日に東芝EMIから「殺意のバカンス」でアイドル歌手としてデビューした。同期デビューに、森川美穂・中山美穂・南野陽子・森口博子・斉藤由貴・大西結花・橋本美加子・芳本美代子・井森美幸・浅香唯、石野陽子・松本典子・おニャン子クラブなど、のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。キャッチフレーズは「美奈子、あなたと初めて♥」と「好きといいなさい!」の2パターン。その後、4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては松本伊代・岩井小百合に続いて日本武道館コンサートを成功させた。また、同年の数多くの新人賞を受賞した。

1986年(昭和61年)2月5日に「1986年のマリリン」をリリース。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなった。
1988年(昭和63年)に女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成[1]、シングル「あなたと、熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演。翌1989年(平成元年)秋に解散した。

ミュージカルでの活躍

1990年(平成2年)、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年(平成4年)5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。
1994年(平成6年)、『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。9月24日にアルバム『JUNCTION』を、翌1995年(平成7年)6月25日にはアルバム『晴れ ときどき くもり』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。
1996年(平成8年)、『王様と私』にタプチム役で出演。
1997年(平成9年)、『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。以後も繰り返しこの役で出演した。

1998年(平成10年)にはエイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に」(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)を歌い、2000年(平成12年)3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。
同じく2000年(平成12年)10月13日にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「天城越え」や「ある晴れた日に」などを歌った。

2002年(平成14年)、『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。
クラシカル・クロスオーバーへの進出
2003年(平成15年)5月21日、初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。
同年東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。

2004年(平成16年)、地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日『N響ほっとコンサート』でNHK交響楽団と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。11月25日アルバム『時』をリリース。12月1日武道館での『Act Against AIDS』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 581 中原理恵 東京ららばい 歌謡とんでる'78

2018-12-17 17:54:11 | 日記
やあ、まことに懐かしいです。「ららばい」などという言葉を初めて知りました。宝塚を思わせるような風貌。キレのよいリズム。必死に覚えて唄いました。


中原理恵 東京ららばい 歌謡とんでる'78



中原理恵(なかはら りえ、1958年6月17日 - )は、日本の元歌手・女優・タレント・司会者。身長:160cm、 血液型はO型。かつて田辺エージェンシーに所属していた。本名は目加田 貴美恵(めかた きみえ)。


来歴・人物

北海道函館市出身。遺愛女子高校卒業。1978年、CBS・ソニーから歌手デビュー。1stシングルの「東京ららばい」が大ヒット。デビュー当時19歳だったが、大人っぽい曲調に合わせるためなのか、年齢を2歳上に偽っていた。年末には、第20回日本レコード大賞新人賞など数々の新人賞を受賞し、第29回NHK紅白歌合戦にも「東京ららばい」で出場。第二弾「ディスコ・レディー」もヒットとなる。

1981年から1982年にかけて、フジテレビ系列『欽ドン!良い子悪い子普通の子』の人気コーナー「良い妻、悪い妻、普通の妻」で「よし子」「わる子」「ふつ子」の三役を演じ、それまでのシリアスなイメージを打ち破る弾けたコメディエンヌぶりで人気が爆発。演技力、カンの良さ、トークの切れが高く評価されることになる。

『ドリフ大爆笑』でもセミレギュラーに近い扱いでたびたび出演しオチを任されることも多かった(『欽ドン!』を途中降板となったのは不倫騒動ゆえと話題にもなったが、実際は彼女が歌手としてもうひと花咲かせたいと訴え、萩本欽一がコメディエンヌとしての充電も必要、とその意を汲んだため)。これを受け、映画監督の市川崑がエド・マクベインの『クレアが死んでいる』翻案に挑んだミステリ映画『幸福』で抜擢を受ける。その後は、人気映画『男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎』のマドンナ役やサスペンスドラマの主演など、歌手・コメディエンヌ・女優とマルチに活躍するようになる。

1983年にテレビ朝日『日曜洋画劇場』で放映された映画『スーパーマン』の吹き替えを行っている(ロイス・レイン役)。第2作でも同じ役柄を担当した。声優としてはFMラジオドラマへの出演も有った。一方で、同じく1983年には映画『プロ野球を10倍楽しく見る方法』においてギャグアドバイザーという形で製作にかかわった。

1986年10月放送開始の『ミュージックステーション』(テレビ朝日)に、初代メイン司会者の関口宏と共にパートナーとして、司会進行役を務めた。その半年後の1987年4月からは、二代目メイン司会者がタモリとなり、タモリのパートナーとして務めていたが、同年12月末で降板。

その後は女優業(ドラマ出演等)を主に活動。また、1997年にはfaceというユニットを組み、一時歌手活動を再開した。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 580 なごり雪 イルカさん

2018-12-16 00:57:26 | 日記
伊勢正三の作詞・作曲だということですが、私は彼女のオリジナル曲だとずっと思っていました。いろんなお方がカバーしています。やはりイルカが一番ですね。歌詞もいいです。すごい昭和の名曲だと思います。


なごり雪 イルカさん



イルカ(1950年12月3日 - )は、日本のフォークシンガー、絵本作家。本名は神部 としえ(かんべ としえ)、旧姓は保坂(ほさか)。


来歴・人物

東京都中野区出身。中野区立谷戸小学校、東京文化女子中学校、東京文化女子高等学校を経て女子美術大学卒業。芸名の由来は、女子美術大学のフォークソング同好会に在籍していた当時、皆がギターケースを持って帰る姿を見て「イルカの群れみたい」と言ったのがきっかけで、周囲からイルカと呼ばれるようになった。

小学校では音楽部鼓笛隊に所属しベルリラを担当。小学校の同級生には作曲家・編曲家の船山基紀がいる。
1970年、シュリークスのメンバーとしてデビュー。
1974年、「あの頃のぼくは」でソロデビュー。

1975年から1976年に掛けて、かぐや姫のメンバー伊勢正三の作詞・作曲による「なごり雪」をカバーして大ヒットした。ほか1977年に「雨の物語」、1979年に「海岸通」(風・伊勢正三の作詞・作曲によるカバー)などもヒットした。
1977年から1980年にかけて、絵本『ちいさな空』全4巻を発表した。

1978年半ばから1979年初めに掛けて、長男(神部冬馬)産休の為に一時歌手活動を休業。
使用ギターはマーティン(1973年製D-35)、弦はエリクサーのコーティング済みのものを使っている。前はマーティンの弦を使っていた。

漫画家さくらももこ及びさくらが原作を手掛けるアニメ『ちびまる子ちゃん』でさくらももこの声を担当するTARAKOと声がそっくりである。それが縁で同作のエンディングテーマ『針切りじいさんのロケンロール』(歌・植木等)でTARAKOと共にコーラス担当した。
2004年より、国際自然保護連合の親善大使となった。また、テーマソングを提供している。

2010年、女子美術大学客員教授に就任。
2018年の大晦日に、第2回ももいろ歌合戦(BS日テレ・フジテレビNEXT・ニッポン放送など)へ出場。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 579 若い歌声 / 橋 幸夫 吉永小百合

2018-12-13 00:42:39 | 日記
やっぱり昭和はここへ帰っていく。この映像の時代は私の青春時代とほぼ一致する。この二人のコンビの映画をたくさん視ました。今改めて視ていて、このまま現代に蘇らせたいと思いました。今の若い世代は共感するでしょうか。きっと共感すると思います。この映像を視ていると、昭和に戦争があったということなど信じられなくなります。この映像の世界を大切にしてこれからも生きていきます。吉永小百合というお方は心の中で永遠に輝いていると思います。勇気が湧いてきます。ありがとう、小百合ちゃん。



若い歌声  橋 幸夫 吉永小百合



「若い歌声」(わかいうたごえ)は、1963年11月5日に ビクターより発売された橋幸夫の34枚目のシングル(VS-1146)で、「いつでも夢を」「若い東京の屋根の下」につづく吉永小百合との3枚目のデュエット曲である。TBSドラマ「いつでも歌を」の主題歌となっている。


概要

橋は、前年9月20日に発売した吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」(VS-807)で、第4回日本レコード大賞を受賞し、「夢のコンビ」といわれ、その後デュエット2作目として「若い東京の屋根の下」が発売され、これがヒットすると、3作目として本楽曲が制作された。

作詞は佐伯孝夫、作曲は吉田正で、前2作品と同じく橋と吉永の両恩師による楽曲である。
前2者に比較して、近年ではベスト盤への収録も殆どないが、小野善太郎は「埋もれてしまうには実にもったいない名曲」としている。
本楽曲には「セリフの掛け合いもあり」、「いつでも夢を」と違って、一緒に吹き込みを行っている。前曲「若い東京の屋根の下」が「古き良き東京のムードが溢れていた」のに対して今回は、「幼馴染みの故郷の歌」「雪ぐつはいたお人形」「丘のポプラ」など、歌詞やセリフに子供時代のふるさと(田舎)の情景が歌われている。

c/wの「花は呼んでいる」も佐伯作詞、吉田作曲であるが、前回のB面が橋の単独歌唱であったためか、今回は吉永の単独歌唱となっている。AB両面ともデュエット曲が収録されているのは、橋・吉永デュエットの最終作となる第6作のA面「夢みる港」B面「あの娘はまちへ」のみである。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 578 大場久美子 あこがれ 1977年

2018-12-09 17:51:10 | 日記
「Wiki」をこの連載ではすべてに引用しています。内容的に本人の意思に反するものもあるのではと思っています。これが私の最大の不安です。事実をご存知のお方はは書き込みをお願いします。
大場久美子さんについては正直若いころ強い関心を持っていました。歌手としてだけではなく、彼の吉永小百合さんのように大女優として成長するお方に違いないと思っていました。事実どんどん伸びていかれました。私は今も映画の大作に登場すると信じて応援しています。


大場久美子 あこがれ 1977年



大場 久美子(おおば くみこ、1960年1月6日午前4時27分 - )は、日本の女優、歌手。70年代アイドル。心理カウンセラー。埼玉県川口市出身。三人兄妹の長女(兄一人、弟一人)。オフィスキコ所属。


略歴

1960年1月6日 埼玉県川口市に生まれる(後に鳩ヶ谷市であった市域で育つ)。
1970年 友人の応募で東京宝映テレビのオーディションに合格。同社が主宰する劇団・「劇団フジ」に入り、児童タレントとして活動。
1974年 日本テレビ系列のテレビ番組「愛の山河」に出演。テレビデビューを果たす。

1975年 NETテレビ(現・テレビ朝日)「あなたをスターに!」で特別賞を受賞したのをきっかけに、芸能プロダクション「ボンド企画」にスカウトされ、芸能活動を開始。(この時は、堀越高校在学中だった。)
1977年6月5日 東芝EMI(現:ユニバーサルミュージック)より『あこがれ』で歌手デビュー。翌月公開の東宝映画『HOUSE/ハウス』では準主役に抜擢され、女優としても本格始動する。「一億人の妹」というキャッチフレーズの下、その後立て続けにシングル曲を生み出した。

1978年 同年6月12日から翌年9月24日まで約1年3ヶ月間放送されたTBS系のテレビ番組「コメットさん」(第2期、全68話)で2代目コメットさんを務め、全国的にその名が知れ渡り、ブロマイドが爆発的に売れ、一躍トップアイドルになる。
1979年3月5日 7枚目のシングル「スプリング・サンバ」発売(オリコン最高位44位、シングル売上3万枚)。これが最大のヒット曲となり、彼女の代表曲となる。

1979年10月19日 「さよならコンサート」を日本武道館で開催。「私は女優の世界にお嫁に行きます」との言葉を残し、歌手としての活動を一旦終了した。
1984年7月25日 10枚目のシングル「悲しみ貯金箱」発売。明確な表明をしないまま、なし崩し的に歌手活動を再開した。

1992年 当時の所属事務所ボンド企画が倒産。これを受けて、翌年、個人事務所「オフィス大場」を設立。彼女の母親である大場タカ子が事務所のマネージャー等を務めて、母親と二人三脚で活躍する。(「Wikipedia」より)