とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 431 Speed My Graduation

2018-09-20 16:19:11 | 日記
沖縄と歌手ということを取り挙げると、どうしてもこの「Speed」に行き着きます。ということで、敢えて「SYOWA」ということで・・・。

Speed My Graduation


SPEED(スピード)は、日本の女性4人組ダンス&ボーカルグループ。メンバー全員が沖縄県出身。所属事務所はライジングプロダクション。所属レコードレーベルはSONIC GROOVE、公式ファンクラブは「SPEEDWAY」。


概要

安室奈美恵、MAX等を輩出した沖縄アクターズスクールから、8人グループ「BRAND-NEW KIDS」として結成された。
1995年11月、『THE夜もヒッパレ』内でグループ名を公募し、1996年1月にグループ名が決定。1995年に初めてテレビ出演した際は「島袋寛子(小5/11歳)今井絵理子(小6/12歳)上原多香子(中1/12歳)新垣仁絵(中2/14歳)」であった。

1996年8月5日、シングル「Body & Soul」でメジャーデビューした。デビュー当時の平均年齢は13.5歳で、当時のメンバー全員が小・中学生であったことが大きな注目を集めた。「STEADY」「White Love」「my graduation」「ALL MY TRUE LOVE」など数々のヒット曲を発表したが1999年10月に解散を発表し、2000年3月をもって一旦解散した。

その後、2001年と2003年に二度の期間限定の再結成を経て2008年8月に『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』の出演をもって完全復活した。


メンバー

新垣仁絵(あらかき ひとえ、HITOE、1981年4月7日 - )リーダー
154 cm AB型
ダンス&コーラス担当。

上原多香子(うえはら たかこ、1983年1月14日 - )
159 cm A型
ダンス&コーラス担当。

今井絵理子(いまい えりこ、elly、1983年9月22日 - )
156 cm O型
メインボーカル担当。
現・参議院議員(自由民主党 所属)

島袋寛子(しまぶくろ ひろこ、hiro、1984年4月7日 - )
163 cm A型
メインボーカル担当。(「Wikipedia」より)







あちこち「SYOWA」 430 安室奈美恵さんラストツアー「幸せな時間」

2018-09-19 14:37:44 | 日記
安室奈美恵さんラストツアーの総括、そして、翁長知事による沖縄県民栄誉賞授与。二つの映像を同時掲載しました。この映像を視聴していて、平成ではあるけれど、紛れもない「昭和」を感じました。

安室奈美恵さんラストツアー「幸せな時間」【ママの息子でよかった!】




声詰まらせ 感謝 安室さん沖縄県民栄誉賞 故郷への思いあふれ 「初心にしてくれる場所」



翁長 雄志(おなが たけし、1950年10月2日 - 2018年8月8日)は、日本の政治家。沖縄県那覇市長(4期)、沖縄県知事(本土復帰後第7代)を歴任。

人物

1985年から政治家としての活動を続けてきた。那覇市議会議員(2期)→沖縄県議会議員(2期)を経て、那覇市長、沖縄県知事を歴任した。
父は元沖縄県真和志村長の翁長助静、兄は沖縄県副知事・沖縄県議会議員を務めた翁長助裕。次男は那覇市議会議員の翁長雄治である。


経歴

1950年(昭和25年)10月2日- 真和志村(真和志市→現:那覇市)大道に翁長助静の三男として生まれる。

1963年(昭和38年)- 那覇市立大道小学校卒業
1966年(昭和41年)- 那覇市立真和志中学校(18期)卒業
1969年(昭和44年)- 琉球政府立那覇高等学校(22期)卒業
1975年(昭和50年)- 法政大学法学部卒業

1985年(昭和60年)- 那覇市議会議員に初当選(1期)
1989年(平成元年)- 那覇市議会議員に再選(2期)
1992年(平成4年)- 沖縄県議会議員に初当選(1期)
1996年(平成8年)- 沖縄県議会議員に再選(2期)

2000年(平成12年)- 第28代那覇市長に就任(1期)
2004年(平成16年)- 第29代那覇市長に就任(2期)
2008年(平成20年)- 第30代那覇市長に就任(3期)
2012年(平成24年)- 第31代那覇市長に就任(4期)

2014年(平成26年)
10月3日 - 沖縄県知事選挙立候補のため那覇市長を辞職。
12月10日 - 沖縄県知事選挙の結果により、仲井眞弘多の任期満了をもって第7代沖縄県知事に就任(1期)。

2018年(平成30年)
5月15日 - 4月に行った膵臓の腫瘍の病理検査でステージ2の膵がんであることを公表し、治療と体力の回復を進めながら公務復帰を目指すことを明らかにした(後に公務復帰)。

8月8日 - 沖縄県が記者会見を行い、同月12日まで謝花喜一郎副知事、同月13日から富川盛武副知事が職務代理を務めることを発表した。
同日18時43分、膵がんのため、浦添市の浦添総合病院で死去。満67歳没。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 429 初対談!小室哲哉 × 安室奈美恵

2018-09-17 23:56:17 | 日記
「SYOWA」ではないですが、敢えて・・・、敢えてが多くなりつつありますが、「番外」とはしませんでした。いや、この対談を視聴していますと、仲のいい友達という感じでとても新鮮に感じられました。師弟というのはこうありたいと思いました。安室奈美恵さん、引退しましたけれど、平成を代表する歌手として歴史に名をとどめていくと思います。お疲れさまでした。


初対談!小室哲哉 × 安室奈美恵


安室 奈美恵(あむろ なみえ、1977年9月20日 - )は、日本の元歌手、元ダンサー。本名同じ。身長は158cm、血液型はO型。沖縄県那覇市出身。愛称は安室ちゃん・奈美恵ちゃん。所属レコード会社はavex、レーベルはDimension Point。所属事務所はstella 88。
2018年9月16日を以って芸能界を引退した。


概要

人物

小室哲哉は第一印象について、「たまたま見た『THE夜もヒッパレ』でTRFの楽曲を歌っていた事から、『TRFの曲は楽勝で歌って踊れるんだ』とプレゼンしていると勝手に感じた」「イメージは『TRFの10代バージョン』『渋谷の109で見かけそうな感じ』でやったらすごくはまるだろうな、と考えた」「シャイな感じだけど『とにかく大きい所でコンサートをやりたい、ジャネット・ジャクソンみたいなブラックミュージックをやりたい、コーディネーションはこのスタイルでいきたい』と明確なイメージを一人で用意し、話せる子だった」と話している。姿勢に対しては「僕は安室さんのプライベートとビジネスの両方を見ているわけではありませんが、プロフェッショナルなパフォーマーとしての彼女と普段の彼女というのはどの瞬間に変わるのか、いつも不思議に思っていました。彼女は実際に仕事では淡々としていて、喜怒哀楽を表に出す方ではないと思います。だから彼女はレコーディングやステージを『言葉ではなく、本能的な集中力でやっているのではないか?』と感じました。アドレナリンが分泌するというか、本能的に頭がスッと指令を出す時があるのではないでしょうか。レコーディング等では、曲の時間軸、つまりイントロからエンディングまで曲が進んでいくプロセスがあります。彼女にはそういった時間軸に乗った集中力を感じます。音楽が始まると窓を開き、音が消えると閉じるような感覚。そこが彼女の魅力だと思います」と語っている。

影響力

1996年 - 1997年、茶髪のロングヘアー・ミニスカート・細眉・厚底ブーツなどといった彼女のファッションスタイルや髪型、メイクなどに憧れる若い女性たち、いわゆる"アムラー"が大量発生した「アムラー・ブーム」を巻き起こし、社会現象となった。

ミリオンヒット作を次々と世に送り出し、1997年には10代シンガーとしては日本の音楽史上初となるシングル・アルバム総売上げ2000万枚突破を記録。

2008年7月にリリースされたベストアルバム『BEST FICTION』で、史上初となる10代・20代・30代の3つの世代でのミリオンを達成し、再び返り咲いた(詳しくは#2005 - 2011年 : ソロデビュー10周年を参考)。後にこの記録は、2017年11月リリースのベストアルバム『Finally』(40代)で更新された。

1998年の産休中、浜崎あゆみや宇多田ヒカルといった新たな国民的歌姫が続々と登場する中、復帰した後も人気を維持した。
ファン層に関しては、20代から30代後半までの半数がターゲットとなっていたが、老若男女問わず幅広い世代からの支持を獲得した。また、2008年の再ブレイク以降、邦楽女性ソロアーティストのトータルセールスとしては唯一の年間TOP10位入りを果たした。近年のライブでは毎年開催されるほどチケットは即売され、非常に入手困難な為、プラチナ化となるほどだった。

音楽性

東芝EMI時代はポップス調やユーロビートの楽曲を歌っていたが、avexに移籍して小室哲哉プロデュースが始まると、徐々にブラックミュージック色の強い曲が増えていった。いわゆる小室ファミリーの中でも特異な存在だった。

1999年に産休から復帰すると、TLCやMonicaの作品でも知られる海外大物プロデューサーのダラス・オースティンを起用するなど本格的R&B路線を志向し、2001年発売のシングル『think of me/no more tears』を最後に小室プロデュースを離れる。

2002年 - 2003年のSUITE CHICとしての活動以降、自身で「GIANT SWING PRODUCTIONS」のT.KURAとMICHICO、Nao'ymtなど新たなクリエーターたちの楽曲を選曲し、自らアイデアを出すなど楽曲制作においてセルフプロデュースを行うようになり、ジャパニーズR&Bの女王としての地位を確立していく。特にMICHICOによるリアルな女性像を描いたキャッチーな歌詞は、多くの女性たちの心を掴んだ。
2010年代はavex関連の外国人プロデューサーを起用し、EDMを交えたその当時の最新のR&Bを体現した楽曲が中心となる。
2010年以降はテレビなどのメディア露出を控えてライブ中心の音楽活動にシフトしていった。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」 428 南沙織 ワンマンショー メドレー 昭和50年 1975

2018-09-16 16:51:50 | 日記
「1971年の春、本土復帰前の沖縄から母親と二人で上京。CBS・ソニー社長との顔合わせを経て、デビューに向けたプロジェクトが開始された。」

私はこの記述をある種の感慨を抱きながら読ませていただいた。・・・そうかー。草分けなんだー。いや、他にもいるかもしれません。でも、そんなに前の・・・。私は時間の経つことの速さをつくづく感じました。「Voice of America」とアナウンスされ、続いてアメリカ国歌がラジオから流れてきた下宿時代のことを思い出したからです。


南沙織 ワンマンショー メドレー 昭和50年 1975



南 沙織(みなみ さおり、1954年7月2日 - )は、日本の元アイドル歌手。本名:篠山 明美(旧姓:内間)。
沖縄県出身。夫は写真家・篠山紀信。三児の母。二男は篠山輝信。


来歴

デビュー前

歌手デビュー以前、地元沖縄で琉球放送の視聴者参加型のど自慢テレビ番組『オキコワンワンチャンネル』『100万人の大合戦』などでアシスタントのアルバイトをしていた。一方、その頃東京では、CBS・ソニーがデビューさせる新たな人材を探していた。ある時、琉球放送のテレビ番組にヒデとロザンナがゲスト出演した際、そのマネージャーが持ち帰った写真に偶々南が載っており、更にそれが偶然ソニー関係者の目に留まったことから、急遽、東京に呼び寄せられることとなった。

現役時代

1971年の春、本土復帰前の沖縄から母親と二人で上京。CBS・ソニー社長との顔合わせを経て、デビューに向けたプロジェクトが開始された。
レコード・デビューまでわずか3ヶ月足らずというその過程について、作詞家の有馬三恵子は、「あんなにスムーズに新人歌手をデビューさせられた例は、他にない気がする」と語っている。そして「詩心を大いに刺激した」という南のために書かれた詞の中から、「17才」がデビュー曲として採用され(タイトルは酒井政利による)、6月1日に「ソニーのシンシア」のキャッチフレーズを持って歌手デビュー。約54万枚の大ヒットとなった。

楽曲作りに着手した時点ではまだ芸名は決まっておらず、CBS・ソニーの社内公募では「南陽子」が1位だったが、有馬三恵子の「彼女のイメージは陽子じゃなく、沙織じゃないかしら」の一言で「南沙織」に決まった。
デビュー時の南のインパクトについて、写真家の篠山紀信は「彼女の登場は、返還を目前とした沖縄のイメージ・アップのための国策歌手かと思ったくらい良かった」と述懐しており、音楽プロデューサーの酒井政利は「そのタイミングは、南沙織が持つ気運のひとつであったのではないか」と著書で書き記している。また、「世代的共感を歌うアーティストの始まり」「日本におけるアイドルの第1号」「元祖アイドル」と評価されることもある。

1971年暮れの第13回日本レコード大賞で新人賞を受賞し、同年のNHK『第22回NHK紅白歌合戦』にも初出場。プロマイドも、1971年、1972年の年間売り上げ実績では第1位を獲得している。また、同時期にデビューした小柳ルミ子・天地真理らと共に "新三人娘" と括られることもあり、当時のアイドルの代表格であった。

1972年から1974年頃までは、筒美京平が手がけた楽曲を中心にヒットを放ち、アルバムでは多くの洋楽ポップスもレコーディングした。そのファン層は広く、普段は洋楽しか聴かない層の獲得にも成功したと言われている。

1975年発売の「人恋しくて」では田山雅充が作曲を担当。カヴァー・ソング以外では、初めて有馬・筒美コンビではないシングルA面曲となった。また、この曲で第17回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。以後、松本隆や荒井由実など、ニューミュージック系のライターも起用するようになった。珍しいところでは、アルバム『人恋しくて』において矢沢永吉("五大洋光" 名義)からも楽曲提供を受けている。1976年には、本人が「大のお気に入りの曲」と挙げる「哀しい妖精」を発表した。当楽曲は日本語歌詞(作詞: 松本隆)によるシングル・ヴァージョンのほか、ジャニス・イアンから提供された原詞そのままの英語ヴァージョンが15thアルバム『ジャニスへの手紙』に収録されている。

現役引退

1978年春、「春の予感 -I've been mellow-」がスマッシュ・ヒット。この年入学した上智大学での学業に専念するため、同年10月のコンサートをもって歌手を引退した。「さよならコンサート」の映像は商品化されていないが、ライヴを録音したレコードは同年12月5日にリリースされている。なお、引退に際し、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』では「南沙織 サヨナラ企画」が放送された(同年9月25日放送)。
1979年、引退後に交際がスタートしたという写真家の篠山紀信と結婚。紀信との間には3人の息子をもうける。次男の篠山輝信は、2006年に俳優デビューを果たした。
1983年には、"Cynthia" 名義で作詞家としての活動を1曲のみ行っている。森山良子が作曲し「ウ・フ・フ」というタイトルでアグネス・チャンのアルバム『小さな質問』に収録された。

歌手活動の一時再開

1991年末、第42回NHK紅白歌合戦へ1977年の第28回以来14年ぶりに出場。NHKからオファーを受けた当初は「17才」「色づく街」の2曲を歌う予定であったが、南本人の希望もあって「色づく街」のみを歌うに至った。なお、本人が登場する直前のコーナーでは、阿久悠が執筆した南の紹介文を渡辺美佐子が朗読し、BGMに「17才」のメロディーを流すという演出であった。

1992年以降、「家庭が第一」というポリシーのもと、基本的にはレコーディングのみと限定的ながら活動を再開して作品をリリース。この時「シンシア」の名で活動したこともあるが、他に同じ芸名の歌手がデビューしたと言う事もあり、「南沙織」に戻っている。
1997年4月にフィリップモリスのCMソングとなったシングル「初恋」をリリースして以降、新譜の発表はされていない。

2000年以降

2000年6月、歌手デビュー満30周年を記念した完全生産限定CD-BOX『CYNTHIA ANTHOLOGY』が発売された(CD5枚+DVD1枚の全6枚組)。日本の音楽CD-BOXとしては初めてDVDが同梱された作品であり、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高62位にランクイン、再プレスもなされた。またこの頃、リリースにあたってソニーミュージックの公式サイト「Art of loving」では、記念作品が完成した事に対して自ら謝辞コメントを寄せた音声が公開されていた。

沖縄本土復帰30周年となった2002年、「沖縄タイムス」(5月15日付)のインタビューで沖縄への思いを語ったほか、2003年7月には浴衣姿で被写体となった新聞広告(撮影: 篠山紀信)が掲載された。

2006年3月、恩師である酒井政利の「文化庁長官表彰・音楽プロデューサー45周年」パーティに、久しぶりに夫婦で公の場に登場し、乾杯の音頭をとった。同年6月には、歌手デビュー35周年を迎えるにあたり、全スタジオ・アルバム21枚を紙ジャケット仕様で復刻した完全生産限定CD-BOX『Cynthia Premium』が発売された(CD21枚+DVD1枚の全22枚組)。当ボックスでは「篠山シンシア」として監修も務めあげ、オリコンのアルバムヒットチャートでは最高84位にランクインしている。

2008年10月には、週刊誌『アサヒ芸能』(第63巻第39号)内特集 "70年代アイドルを「感涙の総直撃」" に特別メッセージを寄稿。歌手デビュー当時の思い出や近況等が掲載された。(「Wikipedia」より)


あちこち「SYOWA」 427 昭和を代表する作詞家 阿久悠 名曲集

2018-09-15 17:07:26 | 日記
この方の仕事はまことに広くて重い。昭和の歌謡を語る時、先ず特筆しなければならない。『瀬戸内少年野球団』という作品も映画とともに記憶の奥深く大切にしまってあります。夏目雅子。・・・姿がすぐに浮かんできます。アクユウ。・・・私もそう呼ばれてみたいです。


昭和を代表する作詞家 阿久悠 名曲集


阿久 悠(あく ゆう、1937年2月7日 - 2007年8月1日)は、日本の放送作家、詩人、作詞家、小説家。本名、深田 公之(ふかだ ひろゆき)。淡路島(兵庫県津名郡鮎原村、現:洲本市五色町鮎原)出身。第2回横溝正史ミステリ大賞、第45回菊池寛賞受賞。紫綬褒章、旭日小綬章受章。


来歴・人物

阿久悠のペンネームの由来は「悪友」から。また、多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した(阿久の小説『グッドバイ―BN童子の青春』の登場人物であるロック歌手の名に由来する)。長男は作曲家の深田太郎で、ゲーム音楽や声優に楽曲提供している。 両親とも宮崎県児湯郡川南町出身。

幼少期は兵庫県警巡査であった父親の仕事の都合で、いずれも津名郡内であるが、数年おきに転居を繰り返す。洲本市立都志小学校卒業、五色町立都志中学校、一宮町立江山中学校、五色町立五色丘中学校卒業、兵庫県立洲本高等学校卒業(同級生に京都大学教授の木曾好能、料理研究家の為後喜光等がいる)、明治大学文学部卒業。両親は父の定年退職と同時に故郷の宮崎に戻ったという。

1959年(昭和34年)に広告代理店・宣弘社へ入社する。元々は映画の脚本が書きたくて、丁度『月光仮面』で売り出し中だった宣弘社が、企画部で脚本家を募集していたのを知り「銀座にある会社に行きたい」という条件にもマッチしていたので、入社を希望し入社試験を受けて合格。同じ大学出身の先輩であり脚本家の伊上勝が課長を務めていた企画部の下に配属になったが、入社早々に「コンテ描ける?」と言われて、振られた仕事はCMの絵コンテ描きだったという。

絵は好きだったが、仕事で描いた事などまったくなかった状態で必然的にテレビCMの仕事ばかりをこなす羽目になり、「俺は何のためにここに入ったんだ?」と思いながら仕事をしていたが、そのCM作りの仕事が後に作詞家として活躍するための土台となり、本人の予期せぬ方向で才能が開花した。当初阿久本人は『月光仮面』の後番組である『豹の眼』や『怪傑ハリマオ』の脚本を書かせてもらえるものだと思っていたという。

また、隣のデスクには生涯の友となる、劇画『同棲時代』や『修羅雪姫』で名を馳せた「昭和の絵師」の異名を持つ上村一夫がおり、上村と二人で社内でギターをつま弾きながら、歌を作り休憩時間などを活用して社内で披露していた事もあった。これらの経験が後に作詞家として大成する礎となった。コピーライター・CM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家としても活動。

1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。歌詞の処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」(1965年(昭和40年)5月10日発売)。初のシングルA面曲は山崎唯の「トッポ・ジージョのワン・ツーかぞえうた」(1966年(昭和41年)11月発売)。

本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」(1967年(昭和42年)11月5日発売)。このタイトルの由来は、曲の締め切りが朝に迫っていたからだという。「朝まで待てない」はオリコン最高38位を記録し、1968年(昭和43年)に正式スタートしたオリコンチャートに初めてランクインした阿久の作詞作品となった。

また、この頃よりオフィス・トゥー・ワンに所属する(死去まで)。
その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。さらには日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員として関わる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、あのスタイルを考えたのは阿久自身である。「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と提案した。1977年(昭和52年)、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、『おはよう!こどもショー』のコーナーでも歌われていた。

上記の作詞経験から「感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである 」との言葉を遺す。しかし、1980年代に入りニューミュージックのアーテストが台頭し、彼等のつづった叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、さらに、後進の作詞家である松本隆や秋元康らが台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる。以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。この頃になると60年代、70年代に作詞した曲に対して「懐かしい名曲」としてテレビ番組の出演オファーがあったが断っていた。

直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、1982年(昭和57年)には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』はその後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞を受賞する。1997年(平成9年)、30年間にわたる作詞活動に対して、日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年(平成11年)春、紫綬褒章を受章。2000年(平成12年)10月、掌編小説集『詩小説』にて第7回島清恋愛文学賞を受賞。

2001年(平成13年)に腎臓癌を患い、同年9月12日に癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。70歳没。戒名は「天翔院詞聖悠久居士」。同年3月に行われた石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。
墓所は東京都港区の長谷寺に在る。

日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で決定した。また、同年の第49回日本レコード大賞では特別功労賞、第45回ゴールデン・アロー賞では芸能功労賞が贈られた。

2009年、明治大学連合父兄会阿久悠作詞賞制定。2010年、明治大学アカデミーコモン地階に阿久悠記念館が開設された。また、没後、生前に発表されなかった作詞を基にした楽曲が多数造られているほか、さらに10年経過してからも、2017年の第59回日本レコード大賞では特別賞を受賞している。(「Wikipedia」より)