とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 125 喜びも悲しみも幾歳月

2017-03-26 23:35:36 | 日記
カラオケの映像しか検索しても出てきませんでした。この映画は唄と映像が旨く共鳴していて、独特の哀感を誘います。
デコちゃん、佐田啓二、そして若山彰。そうなんです。主題歌がこんなに画像と溶け合っている映画は珍しいですね。AKIRAはデコちゃんが出てくると、もう何にも言えなくなります。「二十四の瞳」を思い出してしまうからです。
また、中山貴一のお父さんは当時のイケメンの代表的な存在でした。作中に戦争の場面が出てきます。暗い影を全体から感じるのはそのためでもあります。

喜びも悲しみも幾歳月(カラオケ)若山彰


では主題歌は別の映像から・・・。

XAA571 喜びも悲しみも幾歳月 若山彰 (1957)1970 Ver4L



『喜びも悲しみも幾歳月』(よろこびもかなしみもいくとしつき)は、1957年に松竹が制作・公開した、木下惠介監督の映画作品である。

海の安全を守るため、日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら厳しい駐在生活を送る灯台守夫婦の、戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマである。
1956年に雑誌掲載された福島県塩屋埼灯台長(当時)田中績(いさお)の妻・きよの手記から題材を得て、木下監督自身が脚本を執筆した。全編にわたりカラー映像で撮影され、単なるホームドラマの枠を超えて日本各地の美しく厳しい風景を活写した大作で、公開当時大ヒット作となり、同年の芸術祭賞を受賞した。
若山彰の歌唱による同名主題歌の「喜びも悲しみも幾歳月」も大ヒットし、後世でも過去の著名なヒット曲としてしばしば紹介されている。
観音崎、御前崎、安乗崎、野寒布岬、三原山、五島列島、瀬戸内海の男木島、女木島など全国でロケーション撮影を敢行し、ロードムービーの一種としても楽しめる作品である。
後年、3度に渡りテレビドラマ化されたほか、1986年には木下監督自身により時代の変化を加味したリメイク版『新・喜びも悲しみも幾歳月』も映画化されている。

ストーリー

1932年(昭和7年)、新婚早々の灯台守・有沢四郎と妻・有沢きよ子は、四郎の勤務先の観音埼灯台で暮らし始める。北海道の石狩灯台で雪野・光太郎の2人の子を授かり、九州の五島列島の先の女島灯台では夫婦別居も経験する。その後、弾崎灯台で日米開戦を迎え、戦争で多くの同僚を失うなど苦しい時期もあったが、後輩の野津と野津の妻・真砂子に励まされながら勤務を続ける。また、空襲を逃れて東京から疎開してきた一家と親しくなるなど、新たな出会いもあった。
戦後、男木島灯台勤務の時、息子の光太郎が不良とのケンカで刺殺される。が、そうした悲しみを乗り越えた先には喜びも待っていた。御前埼灯台の台長として赴任する途中、戦時中に知り合った疎開一家の長男・進吾と娘の雪野との結婚話がまとまったのだ。御前埼灯台から四郎ときよ子の2人は灯台の灯をともして、新婚の雪野と進吾がエジプトのカイロに向かうために乗り込んだ船を見守る。遠ざかる船を見ながら、四郎ときよ子は「娘を立派に育てあげて本当によかった。灯台職員を続けていて本当によかった」と、感慨深く涙ぐむのだった。(Wikiより)



あちこち「SYOWA」 124 安部公房の人生

2017-03-25 16:25:22 | 日記
何といってもAKIRAは「赤い繭」には参ってしまいました。人間存在の下の暗闇、不安感。そういうものが漂っていて、それでいてまた軽やかに展開する。安部公房は永遠の物書きの指標です。映画「砂の女」も視ました。作品の基調のトーン、色合いを忠実に映像化していると思いました。

安部公房の人生


安部 公房(あべ こうぼう、1924年(大正13年)3月7日 - 1993年(平成5年)1月22日)は、日本の小説家、劇作家、演出家。本名は公房(きみふさ。

東京府で生まれ、少年期を満州で過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、30ヶ国以上で翻訳出版されている。
主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』(同名短編集の第一部。この短編で芥川賞を受賞)『砂の女』(読売文学賞受賞)『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『友達』『榎本武揚』『棒になった男』『幽霊はここにいる』などがある。劇団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の有力候補と目された。(Wikiより)

赤い繭 
 
 
安部公房 
 
 
 日が暮れかかる。人はねぐらに急ぐ時だが、おれには帰る家がない。おれは家と家との間の狭い割れ目をゆっくり歩きつづける。街じゅうこんなにたくさんの家が並んでいるのに、おれの家が一軒もないのはなぜだろう? …..と、何万遍かの疑問を、また繰り返しながら。 
 
 電柱にもたれて小便をすると、そこには時折縄の切れ端なんかが落ちていて、おれは首をくくりたくなった。縄は横目でおれの首をにらみながら、兄弟、休もうよ。全くおれも休みたい。だが休めないんだ。おれは縄の兄弟じゃないし、それにまだなぜおれの家がないのか納得のゆく理由がつかめないんだ。 
 
 夜は毎日やってくる。夜がくれば休まなければならない。休むために家がいる。そんならおれの家がないわけがないじゃないか。 
 
 ふと思いつく。もしかするとおれは何か重大な思いちがいをしているのかもしれない。家がないのではなく、単に忘れてしまっただけなのかもしれない。そうだ、ありうることだ。例えば…..と、偶然通りかかった一軒の前に足をとめ、これがおれの家かもしれないのではないか。むろん他の家とくらべて、特にそういう可能性をにおわせる特徴があるわけではないが、それはどの家についても同じように言えることだし、またそれはおれの家であることを否定するなんの証拠にもなりえない。勇気をふるって、さあ、ドアを叩こう。 
 
 運よく半開きの窓からのぞいた親切そうな女の笑顔。希望の風が心臓の近くに吹き込み、それでおれの心臓は平たくひろがり旗になってひるがえる。おれも笑って紳士のように会釈した。 
「ちょっとうかがいたいのですが、ここは私の家ではなかったでしょうか?」 
女の顔が急にこわばる。「あら、どなたでしょう?」 
 
 おれは説明しようとして、はたと行き詰まる。なんと説明すべきかわからなくなる。おれが誰であるのか、そんなことはこの際問題ではないのだということを、彼女にどうやって納得させたらいいだろう?おれは少しやけ気味になって、 
「ともかく、こちらが私の家でないとお考えなら、それを証明していただきたいのです。」 
「まあ…..。」と女の顔がおびえる。それがおれの癪にさわる。 
「証拠がないなら、私の家だと考えてもいいわけですね。」 
「でも、ここは私の家ですわ。」 
「それがなんだっていうんです?あなたの家だからって、私に家でないとはかぎらない。そうでしょう。」 
 
 返事の代わりに、女の顔が壁に変わって、窓をふさいだ。ああ、これが女の笑顔というやつの正体である。誰かのものであるということが、おれのものではない理由だという、訳の分からぬ論理を正体づけるのが、いつものこの変貌である。 
 
 だが、なぜ……なぜすべてのものが誰かのものであり、おれのものではないのだろうか?いや、おれのものではないまでも、せめて誰のものでもないものが一つくらいあってもいいではないか。時たまおれは錯覚した。工事場や材料置き場のヒューム管がおれの家だと。しかしそれらはすでに誰かのものになりつつあるものであり、やがて誰かのものになるために、おれの意志や関心とは無関係にそこから消えてしまった。あるいは、明らかにおれの家ではないものに変形してしまった。 
 
 では、公園のベンチはどうだ。むろんけっこう。もしそれが本当におれの家であれば、棍棒をもった彼が来て追いたてさえしなければ….. たしかにここはみんなのものであり、誰のものでもない。だが彼は言う。 
 
「こら、起きろ。ここはみんなのもので、誰のものでもない。ましてやおまえのものであろうはずがない。さあ、とっとと歩くんだ。それが嫌なら法律の門から地下室に来てもらおう。それ以外のところで足をとめれば、それがどこであろうとそれだけでおまえは罪を犯したことになるのだ。」 
 
 さまよえるユダヤ人とは、すると、おれのことであったのか? 
 
 日が暮れかかる。おれは歩きつづける。 
 
 家….. 消えうせもせず、変形もせず、地面に立って動かない家々。その間のどれ一つとして定まった顔をもたぬ変わりつづける割れ目….道。雨の日には刷毛のようにけば立ち、雪の日には車のわだちの幅だけになり、風の日にはベルトのように流れる道。おれは歩きつづける。おれの家がない理由が吞み込めないので、首もつれない。 
 
 おや、誰だ、おれの足にまつわりつくのは?首つりの縄なら、そうあわてるなよ、そうせかすなよ、いや、そうじゃない。これはねばりけのある絹糸だ。つまんで、引っ張ると、その端は靴の割れ目の中にあって、いくらでもずるずるのびてくる。こいつは妙だ。と好奇心にかられてたぐりつづけると、更に妙なことが起こった。しだいに体が傾き、地面と直角に体を支えていられなくなった。地軸が傾き、引力の方向が変わったのであろうか? 
 
 コトンと靴が、足から離れて地面に落ち、おれは事態を理解した。地軸がゆがんだのではなく、おれの片足が短くなっているのだった。糸をたぐるにつれて、おれの足がどんどん短くなっていった。すり切れたジャケツの肘がほころびるように、おれの足がほぐれているのだった。その糸は、糸瓜のせんいのように分解したおれの足であったのだ。 
 
 もうこれ以上、一歩も歩けない。途方にくれて立ちつくすと、同じく途方にくれた手の中で、絹糸に変形した足が独りでに動きはじめていた。するすると這い出し、それから先は全くおれの手をかりずに、自分でほぐれて蛇のように身に巻きつきはじめた。左足が全部ほぐれてしまうと、糸は自然に右足に移った。糸はやがておれの全身を袋のように包み込んだが、それでもほぐれるのをやめず、胴から胸へ、胸から肩へと次々にほどけ、ほどけては袋を内側から固めた。そして、ついにおれは消滅した。 
 
 後に大きな空っぽの繭が残った。 
 
 ああ、これでやっと休めるのだ。夕陽が赤々と繭を染めていた。これだけは確実に誰からも妨げられないおれの家だ。だが、家が出来ても、今度は帰ってゆくおれがいない。 
 
 繭の中で時がとだえた。外は暗くなったが、繭の中はいつまでも夕暮れで、内側から照らす夕焼けの色に赤く光っていた。この目立つ特徴が、彼の眼にとまらぬはずがなかった。彼は繭になったおれを、汽車の踏切とレールの間で見つけた。最初腹をたてたが、すぐに珍しい拾いものをしたと思いなおして、ポケットに入れた。しばらくその中をごろごろした後で、彼の息子の玩具箱に移された。
 (http://language-assistant.org/cgi-bin/reading.cgi「LA READINGS」より転載。)

あちこち「SYOWA」 123 木村沙織の最後の戦い2017年3月5日

2017-03-24 01:20:00 | 日記
さおりん引退。お疲れさまでした。AKIRAはずっと応援していましたよ。
少しばかりバレーと関わってきたので、しかもあの東京オリンピックの感激もあったので、女子バレーを応援し続けていましたよ。古賀選手がさおりんの望みをつないでくれると思いますが、まだまだ経験不足。・・・しかし、やってくれると信じます。
ああそうでした。SYOWAじゃないですね。ごめんなさい。

【ついに現役引退】木村沙織の最後の戦い2017年3月5日


木村 沙織(きむら さおり、1986年8月19日 - )は、日本のプロバレーボール選手。日本バレーボール協会アスリート委員会委員。
ニックネームはサオリ。マネジメント契約先はスポーツビズ。実妹の木村美里もバレーボール選手。

高校時代

2002年、バレーの名門として知られる成徳学園高校(現・下北沢成徳高等学校)に進学。高校2年生になるとライトで主力選手となり、2003年春高バレーで優勝を収め、成徳の2連覇に貢献した。同年8月開催のインターハイは3位に終わり連覇を逃したが、インターハイ閉幕と同時に全日本代表から強化合宿に招集され、同年9月のアジア選手権に出場。当初はセッター登録であった。そして11月開催のワールドカップに故障の鈴木洋美の代役として出場した。
12月の全国私学大会で下北沢成徳高は大会初の3連覇を達成。2004年春高バレーでは大会3連覇を目指し決勝に進出したが、第1セット、スパイクを決めた直後に味方選手である横山友美佳と接触し転倒、右足首を捻挫。応急処置を施したのちに足を引きずりながらプレーを続行したが、結局九州文化学園に1-3で敗戦し準優勝であった。
2004年アテネオリンピック最終予選で再度全日本代表に招集され、初戦のイタリア戦で代表初スタメン出場を果たし、14得点をマークすると共に持ち前の性格とあどけない笑顔で「スーパー女子高生」の呼び名でブレイクした。全日本女子チーム2大会ぶりのオリンピック出場に大きく貢献した。

2012年6月、ロンドンオリンピックの代表メンバーに選出された[3]。準々決勝の対中国戦では江畑幸子と共にチーム最多の33得点を叩き出す活躍で、これまでの五輪で1セットも取る事が出来なかった相手にフルセットの激戦の末勝利を収めた。3位決定戦で韓国をストレートで破り、日本女子バレーボール代表28年ぶりの銅メダル獲得の立役者となった。中心選手として全試合にフル出場し、北京オリンピックに引き続き日本人ベストスコアラーとなった。全体でもベストスコアラー部門3位にランクインし、ベストスパイカー12位、ベストレシーバー12位、ベストディガー部門で8位だった。(Wikiより)



あちこち「SYOWA」 122 案山子 さだまさし

2017-03-20 00:41:43 | 日記
さだまさしの代表作の一つ「案山子」の歌詞と島根の津和野の情景とぴったり一致します。それはなぜか。引用文で説明します。

案山子 さだまさし


「案山子」(かかし)は、日本のシンガーソングライター・さだまさしが1977年11月25日に発表したシングル。「雨やどり」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「関白宣言」などと共にさだの代表作の一つとされている。同年のアルバム『私花集』のほか、『さだまさしベスト』などのベストアルバムに収録。また、ライヴ・バージョンも多数存在する。


1952年4月10日、長崎県長崎市で佐田家の長男として生まれる。佐田家は元々島根県那賀郡三隅町(現浜田市)の大地主の家系である。その二男だった祖父・繁治は中国大陸で諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主であり、その繁治と結婚した祖母エンもまたソ連(現ロシア)のウラジオストクで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である。父・雅人は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子と結婚し、雅志・繁理・玲子の3人の子をもうけている。雅志の幼少時は、父・雅人は材木商を営み、自宅は部屋が10以上もある豪邸だった。
3歳よりヴァイオリンを習い始め才覚を現す。ただし1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる[4]。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、葛飾区で下宿し、中学3年生からの約20年間は千葉県市川市で過ごした。
最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、覚えたてのギターでフォークソングの伴奏をしていたという。
当時はNHK『おはなはん』にはまって38日間連続して遅刻していたという。
中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。その一方東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科に志望校を変更)の受験に失敗し、失意のなか國學院高等学校に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。ただし豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。
当時は今の人たちのように駅前で弾き語りするのも勇気なく、ギターケースを担いで京成線高架下や市川橋の下に行っていたという。(Wikiより)


島根県津和野町の「津和野(三本松)城址」からは、津和野の街が一望できます。冬には、重苦しい雲がたれ込め、雪のつもった盆地の縁を、JR山口線の列車が行きます。手前には津和野川。遠方に目をこらすと、財間酒場という古い造り酒屋のれんが煙突も見えます。
 〈城跡から見下せば 蒼く細い河/橋のたもとに 造り酒屋のレンガ煙突〉という、さだまさしさん(57)の歌「案山子(かかし)」さながらの情景が、そこには広がっていました。
 さださんは、何度も津和野を訪れたそうです。父が津和野で開かれた戦友会に出席した際、一緒に来たのが最初。14歳ぐらいだったと記憶しています。その時、津和野城址も訪ねました。高校の卒業旅行でも、仲間と立ち寄ったといいます
 「歌を作った時は、ことさら意識しなかったけれど、気が付くと津和野の歌になっていた。本当に好きなんだよね、あの街が」と、さださんは話します。「案山子」は、かつて津和野城にあった松の大木が、津和野の育ちながら今は故郷を離れている人々に、「たまには帰ってこい」と呼びかけている、という設定だそうです。シングルレコードは1977年の11月に発売されました。
 実は、歌詞には津和野の他に、別の場所での光景も合成されているといいます。それは、ある時、雪の中で見た案山子でした。都会で独り耐える人間の姿を重ねたという。(http://www.asahi.com/shopping/tabibito/TKY201001280256.html「うたの旅人」より)

あちこち「SYOWA」 121 【訃報】俳優の渡瀬恒彦(72歳)さんが多臓器不全で逝去...So sad

2017-03-19 18:00:58 | 日記
渡瀬恒彦さんのご冥福をお祈り申し上げます。72歳。AKIRAの1年後輩だったんですね。
このお方、兄さん、そして錦織圭選手は島根県とご縁があります。ここで改めてご紹介します。

【訃報】俳優の渡瀬恒彦(72歳)さんが多臓器不全で逝去...So sad


渡瀬 恒彦(わたせ つねひこ、1944年7月28日 - 2017年3月14日)は、日本の俳優・歌手。本名同じ。島根県能義郡安来町出身。東映マネージメント所属。兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。

幼少の頃に島根県から兵庫県津名郡淡路町に移り、淡路町立岩屋中学校、三田学園高等学校卒業。早稲田大学法学部除籍(1単位不足だったと「徹子の部屋」出演時の本人談)。在学中は空手道部に籍を置き、段位は弐段。電通PRセンターに勤務していた。
兄の渡哲也は日活の青春スターとして地位を確立していた一方で、渡瀬は芸能界に興味がなく、入る意思はまったくなかった。当時の東映は時代劇から任侠映画・アクション映画へ転換を図っており、渡瀬は企画製作本部長の岡田茂に口説き落とされ、エリートサラリーマン生活にピリオドを打って、1969年(昭和44年)に東映と契約した[7]。渡が芸名で活動しているのに対し、本名で活動し始めたのは、高倉健を意識した東映に「大倉純」という芸名を付けられそうになったが気に入らず、それなら本名の方が良いと申し出たことに由来している。
1970年(昭和45年)、石井輝男監督の映画『殺し屋人別帳』の主役としてデビュー。「仁義なき戦いシリーズ」や『狂った野獣』などのヤクザ映画やアクション映画の出演を経て、1978年(昭和53年)に『赤穂城断絶』、松竹映画『事件』で、ブルーリボン賞・日本アカデミー賞・キネマ旬報等助演男優賞を受賞し演技派として評価を上げ、同年は松竹映画『皇帝のいない八月』でも、狂気を湛えた元エリートの反乱分子を演じている。1979年(昭和54年)には松竹映画『震える舌』『神様のくれた赤ん坊』でキネマ旬報主演男優賞を受賞した。


渡 哲也(わたり てつや、1941年12月28日 - )は、日本の俳優・歌手。元・株式会社石原プロモーション代表取締役社長(2011年退任)。

島根県能義郡安来町(現:安来市)生まれ。父親は日立に勤務、広島県呉市の軍需工場などを転々として、日立の安来工場に勤務していた時、当地出身の渡の母と結婚していた。終戦で父親は日立を退職し実家がある兵庫県津名郡淡路町(現:淡路市)に戻り洋品店を開業、小学校一年生途中から淡路島で育った。出身を淡路島にしているのは、日活に入ったとき石原が神戸市生まれなので、淡路島の方がイメージ的にいい、という判断で決めたからだという。淡路町立岩屋中学校、三田学園高等学校(寮生活)、青山学院大学経済学部卒業。大学在学中は空手道部に在籍し、空手弐段。柔道初段。
大学へ通うため上京。弟の渡瀬恒彦と共に新宿区柏木(現・北新宿)で下宿していたが、在学中に日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集していた。弟の渡瀬や所属していた空手部の仲間が内緒で応募したため、本人は激怒するが、就職を希望した日本航空の整備士社員の採用試験で不合格になり、「撮影所に行けば、石原裕次郎に会えるかも知れない」と友人から言われ、日活撮影所を訪問した。その時にスカウトを受けて1964年(昭和39年)に日活へ入社した。(Wikiより)


錦織圭は1989年12月29日、島根県松江市に生まれました。世界に羽ばたく人間になってほしいと外国人でも発音しやすい名前「ケイ」と名付けられました。

父親の錦織清志さんは元・森林土木系の技術者で積極的な性格。母親の錦織恵理さんはピアノ教室の先生をやっていて控えめな性格だそうです。母方の親戚に渡哲也、渡瀬恒彦兄弟がいます。(http://芸能人の父親母親特集.com/post-2018/より)