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とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 677 山口百恵 志村 けん 8時だョ!全員集合 1980年

2020-05-07 17:43:51 | 日記
八時というと「全員集合」を楽しみにしていた。この映像は永久保存版と言ってもいいほどの価値があると思う。志村けんさんは遅れてメンバーに加わったと記憶している。お亡くなりになったお方のご冥福をお祈り申し上げます。

山口百恵 志村 けん 8時だョ!全員集合 1980年



『8時だョ!全員集合』(はちじだョ!ぜんいんしゅうごう)は、1969年(昭和44年)10月4日から1971年(昭和46年)3月27日、および1971年10月2日から1985年(昭和60年)9月28日までTBS系列で放送されていたお笑い番組・公開バラエティ番組である。全803回。
本項では、番組が終了した後のつなぎ番組である『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』についても記述する。

概要


主演はザ・ドリフターズ。番組名は「全員集合」と略される場合もある。
毎週土曜日、20時(午後8時)から実尺53分間の放送。稀に数回ほど、放送時間を拡大しての放送を行うことがあった。番組の終了後には、通常20時54分からスポットニュースの『JNNフラッシュニュース』が放送されていた。
番組は16年にわたって放送された。ただし途中、1971年4月から9月までの半年間は、ドリフの先輩格であるハナ肇とクレージーキャッツがメインの番組『8時だョ!出発進行』が放送されていた。

番組は、ドリフによるコントが中心の前半パートと、体操あるいは合唱団などによるショートコントが中心の後半パートとに分かれていた。前半パートと後半パートとの間には、ゲスト出演者による歌のコーナーがあった。
基本的には生放送であったが、事前収録の録画放送となる回もあった。例えば、番組がスタートしてから1か月の間は録画放送であった。また1970年代前半までは、日劇や浅草国際での舞台公演があったこと、ドリフの休暇やスケジュールの都合などから録画放送となる回があった。このほか、ドリフが『ザ・ピーナッツ さよなら公演』に顔出しするため、1975年3月26日に事前収録したものを同年4月5日に流したことがある。この回は、近畿地方におけるネット局が朝日放送から毎日放送へ移行して最初の放送回となった。

毎週各地の劇場・ホールで公開生放送あるいは公開録画を開催した。第1回は三鷹市公会堂からの録画放送。原則としてTBSエリア内の東京首都圏を中心とし、時には系列局の開局記念企画として札幌、仙台、福島(ドリフのメンバー・加藤茶の出身地)、新潟、静岡、名古屋、桑名、金沢、倉敷、広島、福岡、宮崎といった地方での収録も実施している。1984年10月以降はTBS本社(旧社屋)Gスタジオでの公開生放送となることが多くなり、ホールからの中継放送が著しく減った。2005年10月2日の復活特番では、1994年に落成したTBS本社(新社屋)Bスタジオからの公開生放送を実施している。

随時、回り舞台を活用する大掛かりな舞台装置と、入念に練り込んだコントや、大仕掛けの屋体崩しに代表される豪快なオチなど、出演者たちの身体を張った笑いが、小学生を中心とした老若男女を問わず幅広い層の視聴者に熱狂的に受け入れられた。また、生放送にこだわったために停電やボヤ騒ぎやゲストの負傷等のアクシデントに見舞われた回もあった。
ゲストには、当時の売れっ子アイドルや演歌歌手などを3 - 4組ほど招いていた。回によっては三船敏郎、若山富三郎、菅原文太、加山雄三、田宮二郎などの大物俳優やスポーツ選手、TBS系の他番組からゲストが出演することもあり、しかも彼らが積極的に番組のコントに参加していた。

ドリフメンバーのスケジュールは木曜日から土曜日までの3日間押さえており、基本的には木曜日に次週分(9日後)のネタ作り、金曜日に翌日分の立ち稽古、土曜日がリハーサルと本番という流れ。「番組がスランプに陥っている」と言う理由で、通常のレギュラー放送を一時休止して(その間は総集編を放送)、ドリフメンバーによる「合宿」までしたという。このように莫大な労力を費やして制作していた番組であった上、出演者のギャラの高騰などによる費用面の問題・出演者に掛ける保険の費用高騰・安全性の問題・その後の様々な表現規制・芸能事務所の生放送番組に対するスタンスの変化などといった業界事情の変化により、現在ではこの様な規模の公開生放送番組を毎週1回のペースで作ることは極めて困難である。かつてドリフのマネージャーを務め、現在ドリフメンバーが所属するイザワオフィス社長の井澤健も『週刊新潮』のインタビューで「時代が変わり過ぎて、現在ではもう再現不可能な要素が多過ぎる」と語っている。

番組全体の平均視聴率は27.3%で、最高視聴率は1973年4月7日放送の50.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区にての数値)であった。最盛期には40% - 50%の視聴率を稼ぎ、「お化け番組」「怪物番組」と呼ばれ、「土曜8時戦争」と呼ばれる視聴率競争でもほぼ無敵の存在であった。このため、この番組が全盛期を迎えていた頃は、TBSでは土曜夜のプロ野球中継が組まれることはほとんどなかった。ただし、長らく40%台の常連であったため、番組末期に30%台以下に視聴率が下がった際には各新聞や雑誌で「ドリフは終わった」と批評されたこともあった。

1970年代後半から1980年代前半にかけては、19時台前半の『まんが日本昔ばなし』【第2期】(1976年1月 - 1994年3月、毎日放送制作)、19時台後半の『クイズダービー』(1976年1月 - 1990年3月)、21時台の『Gメン'75』(1975年5月 - 1982年4月)や『スクール☆ウォーズ』(1984年10月 - 1985年4月)などとともに、TBSの土曜夜の黄金期を象徴する番組であった。しかし、1981年に仲本、志村の競馬のノミ行為事件の影響、春に幕を開けたフジテレビの裏番組『オレたちひょうきん族』の台頭、さらに6月のギロチン事件の影響が重なり、1982年中頃から番組人気に陰りが見え始め、1982年10月2日の放送回で初めてひょうきん族に視聴率を抜かれた。これ以降は視聴率争いに苦戦し、1983年8月13日に視聴率で初の1桁(9.2%)を喫した。

以降は視聴率が10%後半くらいが平均となり、ひょうきん族と抜きつ抜かれつの視聴率争いを繰り広げるが、1985年に入ってからはほぼ後塵を拝した。そして遂に、土曜20時台枠の抜本的な見直しにより、1985年9月28日に通算15年6か月の歴史に幕を閉じた。TBSは、1985年7月19日の打ち切り発表の中で、「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」ことを理由に挙げていた。

その後、1985年10月5日は『電リクだョ!全員集合』と称し、約2時間枠で電話リクエスト形式で過去の名場面集を放送した。そして年内いっぱいは総集編番組『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』でつなぎ、1986年1月から同じくドリフの加藤茶と志村けんをメインに据えた『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まった。ドリフのメンバーがメインの番組は、1992年9月終了の『KATO&KENテレビバスターズ』まで続いた。 (「Wikipedia」より)