とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」680 桜

2020-05-22 01:15:39 | 日記
桜                        瀬本あきら


 じいさんの腰は、直角に曲がっている。
 今年で数えの九十歳になる。
 しかし、ばあさんとの二人暮しなので、毎日の山行きが唯一の収入源である。
 その日も水平になった背中に、少々の薪を背負い込んで帰り道を急いでいた。ただ、急
ぐといっても、気持ちだけの早足であった。藜(あかざ)の杖をついている。
 「この薪を、酒屋の伸介じいに売って、魚と野菜を買い込んで、ばあさんに渡さねば・
・・・・・」
 ばあさんの喜ぶ顔が、じいさんの生きがいであった。
 ぐいぐいと背中の荷が、胸と腹を締め付ける。
 「・・・・・・こんなことでへこたれたら、二人とも飢え死にだ」
 じいさんは、地面にへたりこみそうになる自分の体をかろうじて支えていた。
 「○○じい、手伝ってあげようか」
 通りかかった子どもが声をかけた。じいさんは涙がでそうになった。しかし、断った。
 「いい大人になるぞ、坊は」
 きょとんとして子どもは立っていた。
 「いいから、いいから。母さん待ってるぞ。早くお帰り」
 子どもは、その言葉で諦めて、わき道の方へ駆けて行った。
 捨てる神あれば、拾う神ありか。そうじいさんは呟いた。そして、また家路を急いだ。
 後ろから車の音がした。あっという間にじいさんの脇を通り過ぎた。風圧でじいさんは
少しよろめいた。
 捨てる神あれば、拾う神ありか。じいさんはまた呟いた。そして、アスファルトの道の
表面を見つめた。
 「あれ、桜だ」
 本当に、白い花びらのようなものがちらちらと舞っていた。じいさんは、上目遣いで山
を見上げた。
 「まさか、桜の時期はとっくに過ぎている。葉っぱだらけの山だ」
 じいさんは、自分の目を疑った。もうろくしてからに・・・・・・。
 しかし、確かにちらちらと白いものが舞っている。じいさんはそのちらちらに近づいて、
じっと見つめた。
 「なんだ、やっぱりちがう。紙切れだ。しょうもない」
 気がつくと、すたすたとまた歩き出した。
 
 家が近づいてきた。腰には魚の藁苞(わらづと)がぶら下がっていた。
 すると、何故かまた目の前をちらちらと舞い上がるものが見えた。じいさんは、また思
い返した。紙切れだ。紙切れだ。
 「……しかし、待てよ。もうろくしたから、あれは本当の桜だったかもしれん。遅咲き
の」
 もう、じいさんは、どちらとも区別がつかなくなっていた。ただ、ちらちらと、ちらち
らと白い花弁が頭の中を舞っているだけだった。

同人誌「座礁」より転載