とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 445 尾崎紀世彦/また逢う日まで

2018-10-13 16:33:28 | 日記
この唄を聴くと俄然勇気が湧いてきます。歌詞には哀感が漂う。しかしル気が湧いてくる。不思議な唄です。体全体で発声するその響きが心地よいのです。この唄も決して忘れることはありません。


尾崎紀世彦 また逢う日まで




尾崎 紀世彦(おざき きよひこ、1943年1月1日 - 2012年5月30日)は、日本のポピュラーソング歌手。愛称は「キーヨ」。
デビュー当時は立派なもみあげが、1980年頃にはもみ上げは剃り、代わりに口髭・顎髭がトレードマークで、そのダイナミックな歌唱力から「和製トム・ジョーンズ」と称された。


来歴・人物

生い立ち

東京都渋谷区に男三人兄弟の次男として生まれ、神奈川県茅ヶ崎市で育つ。父:尾崎繁(芸名:藤田繁)と兄:藤田彰彦はクラシック・バレエのダンサー・演出家、母:礼子はショーダンサー・日劇ダンシングチームの一期生である。父方の祖父はイギリス人のHenry Buckingham Lucas、本人は日英クォーターである。

幼少の頃からラジオのFENでジャズやカントリー等に親しんでいた。茅ヶ崎市立第一中学校卒業後、YMCA国際ホテル学校へ進学する。趣味は小学生で始めたサーフィン、乗馬、祭りの神輿担ぎ、ハーレーの収集とツーリング、縦目メルセデス(オールドベンツ)でドライブ、ヨット、沖縄でスクーバ、射撃、銀細工、シルバーアクセサリーの収集、料理。

バンド時代

ヒロ・ハワイアンズ 1956年頃 - 1964年頃

13歳の時に父にウクレレを買って貰い、中学の同級生6人でハワイアンバンドを結成する。教則本が先生だった。初めて覚えた曲は、おそらく「星は何でも知っている」。箱根ホテル小涌園のバンド募集のオーディションに合格し、17歳でセミプロデビューする。ここで司会を担当したのが大学生の露木茂(元フジテレビ)。 1964年には念願の日劇出演を果たすが、目標達成とメンバーの学業と家業の忙しさから解散に至る。

ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ 1965年 - 1966年

契約した芸能プロダクション東京ハワイアンズが、ジミー時田と同じ所属先という縁でセカンドボーカルとギターで参加する。 アルバム『尾崎紀世彦/カントリー&ウェスタンを歌う』では、演奏を「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」に在籍した石田新太郎とシティライツが担当した。ジミー時田は、1967年から音楽活動の場をアメリカに移している。

ザ・ワンダース 1967年1月10日 - 1969年

1967年にGSでも活躍したコーラス・グループザ・ワンダースを結成する。初期メンバーは、栗敏夫と朝紘一、尾崎の3人。TBSやNHKのポップス番組に出演し、洋楽カヴァー、テレビ主題歌などをリリースする。「ジ・エコーズ」名義で『ウルトラセブン』の主題歌・挿入歌も担当。主題歌冒頭で連呼される、3番目の「セブン〜♪」が尾崎の声である。シングル「また逢う日まで」レコーディングの際には、既に解散していた元メンバーが再結集しバックコーラスを務めた。

ソロ

日音の村上司プロデューサー(後の日音・社長、会長)の熱心な働き掛けがあり、1970年8月に「別れの夜明け」でフィリップス・レコードよりソロデビュー。

デビューにあたって、「ザ・ワンダース」のリーダー小栗俊雄が歌手を引退、日音に所属し尾崎のディレクターとなった。ダイナミックな歌唱は業界内で話題となるが、同年9月、タクシー乗車中に六重衝突という交通事故に巻き込まれ、4ヶ月に及ぶ入院生活でレコードの宣伝活動ができず売れなかった。

1971年、「また逢う日まで」「さよならをもう一度」「雪が降る」「愛する人はひとり」が次々とヒット、出身地・茅ヶ崎ではワンマン・ショー、大阪にて初のソロ・コンサートを開催する。2枚目のシングル「また逢う日まで」が売り上げ100万枚を突破、第13回日本レコード大賞大賞と第2回日本歌謡大賞大賞をダブル受賞する。日本レコード大賞を受賞した際に両手でVサインを、さらにトロフィーを持ち上げて笑顔でVサインをしたパフォーマンスは、今もテレビで流れる名シーンである。

同年、『第22回NHK紅白歌合戦』に白組トップバッターとして初出場する。翌1972年、「ふたりは若かった」「こころの炎燃やしただけで」「あなたに賭ける」とヒットを重ね、「ゴッドファーザー〜愛のテーマ」のカヴァーで、紅白歌合戦に連続出場。1990年にも『第41回NHK紅白歌合戦』に出場している。

1979年、「My Better Life」をリリース。歌謡番組を始めとして『ミュージックフェア』『サウンド・イン"S"』などのポップス番組に出演する。その後も、『青春のポップス』『ときめき夢サウンド』『魅惑のスタンダードポップス』ほか多くの番組で、レパートリーである数々の映画音楽、ジャズを披露。ヒット曲を持ちながらも「ジャンルや時代を超えた、良い歌の世界を直接届けたい」との思いから、スタンダード・ナンバーを中心としたライブ音楽活動を行っている。

1987年には「サマー・ラブ」がスマッシュヒットする。音楽バラエティ番組である『THE夜もヒッパレ』にも出演。1995年、ソロデビュー25周年の記念コンサートを開催する。同年に放送されたアニメ『空想科学世界ガリバーボーイ』では、主題歌「燃えろ!ガリバーボーイ」を熱唱し、この番組で尾崎の歌声を知った若者も多い。

ソロ活動以外にも、1990年代より旧知の演奏家たちとジャズ、ハワイアン・カントリーライブのジョイント・コンサートを定期的に公演する。新たな試みとして2007年に行われた、オーケストラとのポップスコンサートも恒例となった。ソロツアーとして、2010年2月から「プレミアムコンサート」が開催された。

2011年4月、公演予定(5月)のコンサートを「病気療養のため中止する」旨、主催者より発表される。翌年5月、度重なる取材・報道に対し「1年以上前から入院している」ことが、親族より明かされた。2012年5月30日、肝臓癌のため東京都内の病院で死去。69歳没。

9月2日、ホテルオークラ東京にて「尾崎紀世彦をしのぶ会」(発起人:今井直次・前田憲男・猪俣猛・筒美京平)が開催され、長年親交があったペギー葉山、大林宣彦、上條恒彦、尾藤イサオ、つのだ☆ひろ、錦野旦ら多くの音楽関係者・友人が出席して追悼した。ハワイ出身女性との最初の結婚では1男1女を、2度目の結婚では1女をもうけた。療養の際には、交流が続いていたハワイ在住家族の献身的な看病があったという。

2012年12月30日、日本作曲家協会より第54回日本レコード大賞特別功労賞が贈られた。
2013年10月1日、「平成25年大衆音楽の殿堂」顕彰者に入選、殿堂入りした。
(「Wikipedia」より)