橡の木の下で

俳句と共に

「選後鑑賞」令和4年「橡」1月号より

2021-12-28 14:16:41 | 俳句とエッセイ
  選後鑑賞      亜紀子

自転車の介護師帰る冬夕焼   寳來喜代子

 自転車で介護に来てくれるのは同じ地域に住んでいる介護師さんだろう。地域の人材、力は有り難いもの。色々と界隈の情報にも精通していて安心して頼れることと思われる。その介護師さんにも夕焼けの中帰っていく家庭があることを想像する。前籠に入れた鞄には日誌や何やかやが入っているのか。明日も来てくれる予定だろうか。作者と介護師さんと両方を包む夕焼けが、付かず離れず、しかし安心の拠り所となる関係を結んでいるように感じられた。

子規の句を柱に柿を販ぎをり  香西信子

 言わずと知れた「鐘が鳴るなり法隆寺」の子規の句。掲句も法隆寺界隈で詠まれたのだろうか。柱に無造作に画鋲でとめた短冊。農産物の直売所のような店舗が想像される。コロナの感染者数が激減し、ほっと吟行に出られた折の解放の一句か。 

クルス山木の実飛礫のしじまかな 渡辺一絵

 大阪茨木市千提寺の隠れキリシタンの里、高山右近の旧領であった地。クルス山と呼ばれている小さな丘で大正八年にキリシタン墓碑が発見されたのを契機に、歴史に埋もれていた禁教の遺物が数々発見された。棚田に水が鳴る、今も静かな静かな山里。木の実の落ちる音が響くのみのこの静けさが、厳しく密かに教えを守っていた信者たちそのもののようだ。

ひき波の真砂光れり星月夜   立林きよの

 満天の星。波の音。きらきら煌めき引く波は波止の灯を返しているのかもしれないが、まるで空の星々が落ちて散ったよう。 

理髪師の剃刀冷えて顔ちぢむ  泉川滉

 水の冷たさや触れたものの冷たさ、ことに金属の冷たさに季節を感じるものだ。髭をあたって貰った経験はないが大方の男性は掲句の体験をされているのだろうか。顔ちぢむの表現に唸る。

牧しづか三角屋根に雁渡り  岡田まり子

 家畜舎だろうか、牧場の母屋だろうか、三角屋根というのがいかにもそれらしい。その上を雁の棹。琵琶湖へと向かうのだろう。しみじみと深まりゆく秋。

湖畔の灯低くつづりて無月かな 端径子

 こちらも鳰の湖と思われる。岸辺に低く軒を連ねる家々。今夜は十五夜、月があれば煌々と照らされるはずの湖面は暗いが、窓明りの連なりもまた一興。

昭和村軋む廊下に秋ともし  青山政弘

 明治は遠くなりにけりどころか、昭和は遠くなりにけりの世となった。掲句の昭和村は岐阜県内の公園で、昭和といっても昭和三十年代前後の日常を再現しているようである。レトロ村とも言えようか。ぎしぎしと軋む木の廊下、LEDなぞもちろん無くて薄暗い電球。秋ともしの語が効いている。

炒つてみる馬刀葉椎の実ほの甘き 阿部琴子

 マテバシイの実はタンニンの含有量が少なく食用に適しているそうだ。生でも食べられると聞く。コロナ感染以前、代々木のオリンピック記念青少年総合センターでの東京例会の折、例会前の明治神宮吟行中、誰かが子供の頃によく食べたわとこの椎の実を一つ生のまま食べて見せてくれた。すごく美味しいわけではないが、何となく甘みがあるとのことだった。炒って食べるとさらに味が良いそう。掲句は調べよろしく、遠い昔を懐かしむ余韻が感じられる。



令和4年「橡」1月号より

2021-12-28 14:13:49 | 星眠 季節の俳句
元旦や喉にたるみの達磨石      星眠
              (テーブルの下により)

 乾窓寺新春と題する中から(寺は安中市松井田町にある曹洞宗の古刹)。毎年初春の吟行は地元の仲間と日帰りで。達磨さんも正月ばかりはお餅を召したか。

  1.                    (亜紀子・脚注)