新宿百人町吟行 亜紀子
十一月の東京例会はいつもの代々木国立オリンピック記念青少年総合センターではなく、新宿区百人町にある俳人協会俳句文学館の会議室で開かれた。それに応じて例会前の小吟行は大久保界隈百人町を歩いた。
百人町については十一月号の首都圏歳時記に、姉羽さんが分り易い記事を寄せられている。町の細長い短冊状の区画、狭い路地はお江戸を警護した伊賀組百人鉄砲隊の屋敷跡の名残とのこと。現在は韓国・朝鮮を中心に、中国、東南アジア、インド、中東などの生活物資を売る店、飲食店などが並ぶ多国籍タウン。そうしたエスニック系の店を目当ての若者も集まる。いささか年寄った若者の私たちは、新大久保駅近くの皆中神社(百発百中のご利益)に集まった。神、仏とは縁遠い私もにわか信心でお守りをいただく。あとは姉羽さんを信じて迷子にならぬよう後ろを付いて回る。
六年程前、おこじょ会の吟行でもこの近辺を歩いている。やはり姉羽さんの案内。町野先生と一緒に。ちょうど一月十七日阪神忌だった。降り立った新大久保駅前には数日前の雪が片寄せられて残っていた。小泉八雲旧居址を尋ねたり、綺麗な色のチマ・チョゴリの店を覗いたり。路地を行けば軒端は途切れなく雪解の雫。句会は韓国料理店で。先生はマッコリはお好きでないというような会話を交した記憶。甘いお酒は苦手ということだったような。
切れ切れの思い出はあるものの、初めて見るような気持ちもしてくる。実際あれから街はだいぶ変わっているようだ。ドラッグストアの軒先で棗を売っていた。
大きく艶つやした生の実。韓国人らしい店員さん曰く、報恩産、ここの棗は韓国で最上品、今だけの期間限定。良い名の土地だなと思い、一つ齧らせてもらう。甘酸っぱい林檎に似た懐かしいあの味。干したのもあり、私は軽い干し棗のほうを買った。
二十五年も前のカナダ時代。家族ぐるみで仲良くさせてもらっていた若い韓国人夫婦。次女が生まれて病院から戻ったとき、そのご主人がやって来てやおら台所に入ると、韓国で産褥に良いとされているスープを作ってごちそうしてくれた。仰山の和布と少しの牛肉を胡麻油でよくよく炒め、塩こしょうで味付けして水を加えて煮込んだもの。身体が温まった。彼らは新婚で、まだ子もない若者だったのに、心こもったお祝いに感激した。
或るとき、その二人から二枚の絵を見せられた。一枚はやや暗いトーンの静かな風景画。一枚は抽象画。どちらが好きかと聞かれ、私は風景画を選んだ。奥さんもそちらが好みと言う。風景は典型的な韓国の田舎の景色とのこと。二つともご主人のお姉さんの作品ということだった。ご主人が「この絵の頃はまだ良かったのだが、抽象画のころはもうダメだった」と言われるので、どういう意味かときょとんとしていると、お姉さんは精神を病んで回復に至っていないということだった。それ以上は何も尋ねなかった。当時、韓国の医師資格を持つご主人は働きながらカナダ医師免許取得のための勉強中、奥さんは大学院で勉強中だった。それぞれ目的を果し、さらなる人生もあちらで送っている筈だが。お互いにやり取りも無くなって久しい。記憶の中では時は止まっている。あの二人ももう良い年になっただろう。
さて、例会前の腹ごしらえはやはり韓国料理屋でランチ。ニンニクと唐辛子を全て平らげて元気百倍。他のお客さんの韓国語、中国語などが普通に聞えているのがこの辺りらしい雰囲気。ちょっと覗いた小さな小売店は棚から棚へところ狭しと品物を並べているのも雰囲気。タイ米も、何と豪州米も十キロ袋で積まれているのが生活感。物珍しい瓶詰や香辛料などなど、興味津々。
二〇二〇年一月の例会はオリンピク記念青少年センターで行うが、その後は五月大会を除いて俳句文学館が会場となる。東京オリンピック開催で青少年センターが使えない。ではこの次の百人町散策の折には、にわか若人になってエスニック系食材を買って帰ろう。多少荷が重くなっても運べるよう、リュックを背負って行こうかと思う。