橡の木の下で

俳句と共に

「蚊食鳥」平成29年『橡』10月号より

2017-09-25 12:00:37 | 俳句とエッセイ

  蚊食鳥  亜紀子

 

声かけてをれば朝顔開きつぐ

手ごたへのなき日日に咲くめうが

蜂が抱く翡翠芋虫透きとほり

おしよろ花たをる我が手も老いにける

金色の翅閉ぢ合はす花むぐり

炒り胡麻のやうに跳ねちるばつたの子

わんさ来て香草好むばつたかな

台風禍雀ら起きて空を見る

たふれ伏す百合の真白き野分あと

ありがたや雷の撒水十二分

真昼間の鳥より嬉々と蚊食鳥

けふもまた一日果てたり終戦日

べろべろと朴の葉垂るる残暑かな

蟬声のるつぼの底の沼ひとつ

初音とて青松虫も一興に


「解釈と背景」平成29年「橡」10月号より

2017-09-25 11:57:33 | 俳句とエッセイ

 解釈と背景       亜紀子

 

 他人の句の理解は、何よりその一句に即して、五七五に盛られているものに忠実に解釈をするのが始めだろう。十七文字そのものを味わう過程で、力の籠っている作品は必ず字義通りの内容を越えてくる。詩形の短さが却って読み手に想像の幅を与える。同時に短詩であるがゆえ、ある程度その背景を知ることも必要だ。俳句ではないが、例えば「飛び出すな、車は急に止まれない」という標語は、車による悲惨な交通事故の認識がなければ、(飛び出すなという命令に既に共通認識の前提が含まれている)ただ車の機械的な性能が強調されることになる。私たちは無意識に両者のバランスの上で解釈をしているようだ。

 毎月の句を読ませていただく時はこのことを念頭に置く。しかし一句のその背景は私には考えの及ばぬものかもしれない。果たして本当に理解しているのか、いつもどこかで案じている。

 ときおり作者自身からその句の背景、状況を種明かしのように教えてもらうこともある。自分の解釈の範疇にはなかった作者の喜びや悲しみに驚くとともに、強い思いは穏やかな語彙の重なりにも自ずと力を及ぼすことをあらためて納得する。

 一方で読み手としてはどうしてもその背景を知っておかねばならない場合もある。これも俳句ではなくて、イラク人の現代女性詩人の話。マナル・アル・シェはイラク北部の古く美しい街、聖書にも出てくるニネベに生まれ育ち、多様な文化を受容し落ち着いていたこの街を心から愛している。しかし二〇〇三年の米国中心の侵攻以来現在まで続く破壊混乱で血塗られたイラク。ことにニネベは二〇〇四年ISILに奪われたモスルに属しているといえばその様相は想像がつく。ISIL統治下、詩人、ジャーナリストとして社会批判を辞さぬ言葉を発していたマナルは命を狙われ、幼い子供二人を連れ、遠くノルウェーに難民として迎えられた。二〇〇三年から二〇〇八年の間にイラクでは七百人のジャーナリストが行方不明になったという。現在彼女はオンラインで発信を続けるとともに、その詩集は各国語に訳されている。

 この話は「抵抗詩人」を題材とした報道番組の一つから。その映像の中でノルウェーの翻訳家と新しい詩を英訳していく共同作業の場面が面白い。

 

 ある尼僧

 

私も**尼僧だった。

 髪を剃り、記憶を剃り、

 爪を切り取り、*記憶を切り取り。

しかし私は結婚を許され、二人子を得た。

  そして***寡婦になった。

    修道士がこの罪を見つけだすよりも早く。

 

*の一節、英語でクリップ ヒストリーという言い回しは可笑しくないかと翻訳家に確認。アラビア語の音がクリップに似ているが、それともまた違う何ともいえない独特の響きも持っていて、ちょうど俳句でも音の効果を思案して最も相応しい語を探すように、彼女の彫心鏤骨を思う。**尼僧だったという過去形を今度は翻訳家が現在形ではないのかと確認。マナルは過去形だと答える。当時のイラクで女性がものを書き、発言するということは命の危険に曝されることという認識がなければ尼の語はピンとこない。ノルウェーでの生活は異文化社会で親子三人だけの寂しさは否めないが、活動、発信の自由を許されており、修道尼のように社会から隔たった思いはないということだろうか。***寡婦になったのくだりで大きな切れ長の瞳、重量感のある鼻、赤く厚い唇を持ついかにも意志の強そうな彼女が涙を押さえることができず一度席を立つ。イラクで彼女の車に爆弾が仕掛けられたのだ。翻訳家は詩人が、ことにマナルのような体験をした詩人が、自身の感情を客観視して言葉にすることに感嘆している。そして彼女の個人史的背景を知らなければ詩の底に流れる涙の重さと質も違ってくる。

 私たちが他人の句を理解するというのは、有る意味では翻訳に似通っているかもしれない。どこまでその句に迫れるか、読み手としての勉強を続けよう。

 


選後鑑賞平成29年「橡」10月号より

2017-09-25 11:53:46 | 俳句とエッセイ

選後鑑賞  亜紀子

 

青胡桃まろぶ辰雄の散歩路  大塚洋二

 

 堀辰雄は療養のために訪れた信州を愛した。ことに軽井沢町の追分(信濃追分)は辰雄の第二の故郷ともいえる、『美しい村』『風立ちぬ』などなど執筆された地。現在山荘や終の住処が記念館として町に保存されている。ここはまた橡俳人にとってのメッカでもある。掲句は作家の足跡をたどる吟行途次の小径だろうか。実際に辰雄の散歩道であったかどうかはともかく、作者は緑陰にまろぶ青胡桃を若き小説家よろしく爪先にころがしてみたのでは。

 

遊女らの寄せ墓傾ぐ苔の花  市村一江

 

 名もなき「遊女」たちの「寄せ墓」が「傾ぐ」哀れをさそう景色。そこに地味ではあるが瑞々しい「苔の花」の青さが、そこはかとなく涼やかさを加え収まっている。

 

一刀に竹伐る尼や星まつる  金子やよひ

 

 七夕を祀るとて、尼様が裏の笹竹を伐り出す。偉丈夫にほど遠い、むしろつむりさえちんまりした華奢な尼様が思いのほか大胆に手際よく一刀のもとにばさりと。尼寺の暮しは不案内だが、日々のお勤めはもとより、常住坐臥男手の要ることも全てを自分でこなすのだろうと想像する。時おり街の買物で見かける尼様はさばさば、てきぱきと動かれる。掲句、そんな様子を一言に描写して、青笹の色も目に鮮やか。

 

炎昼ぞ阿吽の呼吸足場組み  澤村千世子

 

 建設現場か、あるいは外壁の修繕、塗装か。足場を組むのは鳶職の若者だろう。クレーンは使用しない程度の高さと思われる。先輩の少し年上の鳶が一段上の足場に乗り、地上の若い鳶が金属の組み棒を垂直にすいっと投げ上げる。上の者は発止と手に掴む。掴むというより、すっと自然に相手の手の中に収まる、まさに阿吽の呼吸。炎天下の仕事である。見惚れている作者も暑かったことと思う。しかし、足場組みがこのような句になるとは、暑さも何のその。季語としてよく利いている。

 

雀らに粉米撒きやる土用入り 森永修

 

 猛暑の中、雀も元気がない。地に降りて口をあいて、人間であったらさながらはあはあ言うところ。野鳥も気の毒だ。作者が粉米をやるのはいつもの慣だろうか。時間を決めて、自然の生態を乱さぬ程度の餌蒔きなのだろうが雀たちにとっては天の助け。「粉米」の語がうまい響き。

 

いきなりの豪雨に解くる踊りの輪 勝部豊子

 

 まさに今年のゲリラ雨。ちりぢりになる踊り手たちの様子が目に見える。浴衣やティーシャツの色もとりどり。いくぶん遠くからのアングルだろうか。

 

海風の窓へ入り来る夜の秋  佐々木吉弘

 

 海辺の風は夏場でも日が落ちれば涼しいかもしれない。だからいつでも素通しにしているのかと思われる。それが今夜の風はことのほか気持ちが良いようだ。いつもの夜と何ら変わらないようでいて、夏の終りを明らかに感じている作者。

 

芋の葉のぐらりと返す海の風 中村喜代子

 

 海へ向いて少しばかり傾斜のある畑を想像した。大きな芋の葉が海風に一斉に煽られる。ぐらりと返すが良く観察された表現。一陣の風に涼しさがある。