橡の木の下で

俳句と共に

「能面の寺」平成25年『橡』5月号より

2013-04-27 10:00:04 | 俳句とエッセイ

  能面の寺       亜紀子

 

 三月八日、関西同人会。一息に暖かになり、霞むような、黄砂に煙るような沿線の眺め。十時に京都駅に集まり、分散してタクシーに乗車。大路は山茱萸の花盛り。車は程なく南禅寺に到着する。歌舞伎『楼門五三桐』石川五右衛門の科白「絶景かな絶景かな」の三門を潜り抜け、琵琶湖疎水を通ずる水路閣へと進む。花粉症の鼻がぐずぐず言い始める。

 水路閣は明治二十三年に竣工された、琵琶湖疎水の分線の水道橋である。延長九三・一メートル、毎秒二トンの水が流れているそうだ。日本人の手による初めての煉瓦造りのアーチ橋は、土木技術史上貴重なものだという。南禅寺境内を通すにあたり当時は反対も大きかったそうである。現在は、若い男女のグループがカメラを手に皆ここで立ちどまる観光名所。テレビドラマの撮影現場のメッカだそうだ。脇から橋の上へ登り水路の流れを見ることができる。さらさらと澄み、水流は案外に急である。それが白く泡立ち激つ一所を越えて突然とろんと澱み緑色に変わると、なま暖かな空気にどこか魚臭さ漂わせている。椿の梢に鵯が飛び込み、一休みして抜けていく。水の面に響くかのように四十雀の囀り。誰かが、きばしりがくるくると幹を周るのを見たという。南禅寺もここら辺りは森の中である。水路閣の橋脚の古びた煉瓦に萌え出た羊歯の若葉。撮影スポットになるのも分る。同行のB氏の若かりし日の二人の散策のコースでもあったとか。氏も肩を並べてアーチをくぐられたのであろうか。森の春、人の春である。

 水路とは別に、渓に沿うて小さな流れが下っている。その上に滝行場があるという。駒ヶ滝の名。これから訪れる、能面の寺として知られた最勝寺はその滝の下に位置し、南禅寺境内の最も奥まった場所に立つ塔頭である。

 住職は八十八歳。昭和三十年代、能面師北沢如意氏に御堂を工房として貸した縁で、氏に師事。爾来能面師としても精進を続けられてきた。立ったままで、座った我々に向かい話してくださる。面打ちのお話かと思いきや、ことは面の話のみではない。尾張春日井の出身、九歳で丁稚として寺入りし、檀家を持たなかった禅寺の台所の内実、出征・シベリヤ抑留の経験、師如意氏に許されて初めて売りに出した面が一万円(当時の勤め人の一ヶ月の給料)だったこと、夫人を十年の介護の末に最近亡くされたこと、来し方のあれやこれやを織り交ぜて、滔々と川の流れのように、時には行きつ戻りつ、滞りつつ。水路閣はお好みではないようで、あんなものは昔は誰も覗きもしなかった、臭うて、などと言われる。

 一旦水に沈んでしまったものは、お釈迦様でもどうにも掬うことはできません。どういう脈絡だったか、あるいは水路閣の水の話から導き出されたのだったか、この言葉にぐいと胸ぐらを掴まれる。自分は凡人であるから、いつもどうにも仕様のないことの上にぐるぐると思いをめぐらしている。

 能面はそれらの話をすべて呑みこんで、眉ひとつ動かさない。和尚の手に成る物が、物を離れてそこに在る。金襴の仕覆、古いアルバム、句材探しに余念のない我々を黙って見ている。

 和尚は雪駄を掃いて外まで見送ってくださった。鼻梁の通った、福耳のその顔をもう一度まじまじと見れば、この人こそが面であった。

 再び道を返し、往きには通り過ぎた三門へ上がる。門というより楼閣である。楼上には釈尊像、十六羅漢像が並ぶ。仏様に背を向けて、京の街を見渡し、絶景かなと呟いてみる。高みから臨む広がりに、一瞬自分自身も解き放たれた感覚。地上に降り、句会場の京都市国際交流会館へと歩く。近くには琵琶湖疎水記念館、疎水を利用した蹴上発電所など。はや萌え出た柳の大木の緑。

 午後からの句会では四苦八苦した。Sさんが下調べされた一句を教えてくださる。

 夜鷹鳴き能面ひとつ口ひらく  星眠(営巣期)

 朝方見て来たあの面をもう一度見る思い。

 

 

 


選後鑑賞平成25年『橡』5月号より

2013-04-27 10:00:02 | 俳句とエッセイ

 選後鑑賞 亜紀子

 

目をまるく落葉擡げる赤蛙 貞末洋子

 

 アカガエルは子供の頃、小学校へあがる以前は珍しくもない普通の蛙だったと覚えている。それが昭和四十年以降は急激に数が減った。生息環境の変化がその要因であったろう。顔の細い可愛い蛙で、ニホンアカガエルだ。図鑑を見ると、この蛙は他の蛙に先立ち真冬の一月から産卵を始め、産卵が終ると再び水底に潜り、五月頃まで二度目の冬眠をするようだ。普段は草むらや林床で暮らしているらしい。

 故郷の庭池ではヒキガエルが毎年産卵した。やはり早春、辛夷の咲き始める頃で、辛夷の落葉の上をのそりのそり這っていた。顔に似合わぬやさしい声で鳴き、産卵後はまた寝に戻るのもアカガエル同様だ。掲句の作者は浅春の郊外吟行に出て、ちょうど繁殖の為に目を覚ました蛙に出会ったのだろう。落葉の下から覗かせた顔。久しぶりの外気にびっくりしているような、その愛らしさを詠まずにはいられなかったことと思う。なお、この句では「擡ぐ」は「もたげる」と口語体が使われている。

 

乳母車のぞけばチワワ冬ぬくし 深谷征子

 

 散歩日和の一日、通りかかった乳母車にどんな赤ちゃんが乗っているのかしらと、一声掛けてみる。幼子を間にすると、知らぬ同士がいともたやすく言葉を交し親しくなれる。幌の中を覗けば、なんと子犬が一匹。

さて、その後の会話はさぞや弾んだことと想像される。チワワの語が可愛らしく響く。

 

雲脱げば笑ってゐたり双子山 太田順子

 

 この双子山、双耳峰はどこにあるのだろうか。何処であれ、比較的なだらかで柔らかな曲線の頂が二つ並ぶ形の山を双子と称すように思われる。かかっていた雲が晴れ、芽吹きの始まった優しい山容が現れる。笑っていたりに、きゃっきゃと無邪気な笑い声を立てる、向き合う二人子のイメージが喚起される。

 

全山の杉軋み合ふ夕北風 渡辺宣子

 

 取り立てて特別な語を擁するでもなく、凝った言い回しをするでもなく、それでいて一読春浅き杉山の景色が、風の冷たさが身に沁みて来る。美しい京北山を思い浮かべた。もう一度目で称してみれば、全山の杉/軋み合ふ/夕北風、全ての語が手抜かりなく並んでいることに気付く。

 

クレソンのせせらぎ清し御嶽蕎麦 荻野光子

 

 クレソンのせせらぎが清いと言い切ったところまでは当たり前に聞こえるのだが、御嶽蕎麦の展開が意外である。山の茶屋であろうか、クレソン生う渓流の音を聞きながらすする蕎麦がいかにも美味しそうだ。

 

雲間よりまた日の差して鴨帰る 岡田和子

 

 冬から春へ変わる頃、いまだ落ち着かぬ空。灰色の雲が動き、折々天上から光の矢。その光芒を過り、北へ戻っていく水鳥たち。光の柱の届く先、湖面では今羽ばたく者も。

 

誕生日祝ぐテーブルの桃の花 太田三智子

 

 弥生生まれの誕生祝いの宴。卓上の桃の花に春の明るさと、祝がれる人の優しい人柄とが自ずと感じられる。雛祭りの連想から、女性のように思われる。

 

船客のことごとく酔ふ春一番 平石勝嗣

 

 そう大きくはない客船、フェリーであろうか。揺れに揺れたようだ。船酔いだけで済んだのは幸い。落ち着いて船内を詠む作者は船に慣れた人と思われる。