秋 亜紀子
二十世紀梨の古体な紙ごろも
こまごまと月に生るるものの影
水受くる愉悦もろ手に今朝の秋
女郎蜘蛛の紅の太帯秋の風
幻の平安窯や秋の声
沼茅に錆のひと色池の秋
凛々と虫の音揃ふ良夜かな
やうやうに秋は夕日に来てゐたり
あかがねの落葉散りそむ二三葉
蜘蛛の圍のまったき今朝の涼新た
かなちょろはいつも小走り失せにける
稿継いで野分の風を聞く夜かな
なんじゃもんじゃ紺青の実を吊る秋ぞ
日にひろげ一籠もなき唐辛子
無農薬葎に生ひし冬瓜なり
秋 亜紀子
二十世紀梨の古体な紙ごろも
こまごまと月に生るるものの影
水受くる愉悦もろ手に今朝の秋
女郎蜘蛛の紅の太帯秋の風
幻の平安窯や秋の声
沼茅に錆のひと色池の秋
凛々と虫の音揃ふ良夜かな
やうやうに秋は夕日に来てゐたり
あかがねの落葉散りそむ二三葉
蜘蛛の圍のまったき今朝の涼新た
かなちょろはいつも小走り失せにける
稿継いで野分の風を聞く夜かな
なんじゃもんじゃ紺青の実を吊る秋ぞ
日にひろげ一籠もなき唐辛子
無農薬葎に生ひし冬瓜なり
深泥池 亜紀子
三ヶ月に一遍の関西同人会に参加。九月は深泥池と円通寺界隈の洛北吟行である。日月はあっという間に過ぎる。京都は喜子先生筆頭に、大阪、和歌山、兵庫、遠く広島からも総勢十四名。懐かしい面々と京都駅前からタクシーに分乗。私は冬芽先生、雅和先生、なみ先生との四人組に入れていただく。
今夏は残暑厳しく長く、この日も車の窓から結構な日射しを受ける。都の大通りを北へと向かう道中、冬芽先生の体調を伺う。曰く、年を取ると治るものも治らない。本当に治りにくいのですねえと。
冬芽先生はこの春思いがけずの心臓のバイパス手術を受けられた。予後はどうもしっくりしないとのこと。
己が身の大変さは、なかなか他人の目には見る事ができない。とはいえ先回の会にも参加なさり、また今日の日の吟行にも加わる姿は外見にはお元気。その旨申し上げると、主治医からもあなたくらい回復力の有る人は珍しいと評されたとか。なみ先生が、俳句をやっていると少々のことでは休めない。どうしても吟行なり句会なりに出なけりゃならないので、自然回復も早くなりますねえと。冬芽先生大きく頷かれる。
「とても不思議なんですけれど、だんだんに今はもう何も欲しいと思わなくなったんです。あるのは俳句だけなんですわ。
いわゆる地位も名誉も、美味しいものも、そういうものに欲がてんで湧かんのです。だが俳句は別なんです。あとのものは欲しいと思えない。
こんなんは私だけかと思って、仲間うちに聞いてみると、皆同じ気持ちなんですね。本当に不思議なものです。」
そう仰りながら、先生は片手で杖を押さえ、もう一方の手は窓の上の把手につかまり、バスに揺られるお客のように、飄々としていらっしゃる。
深泥池(みどろがいけ)、京都の方達はみぞろがいけ、みぞろいけと呼ぶようだ。その成立は十四万年前まで遡ることができ、氷河期の生き残りといえる動植物相が見られるとのこと。一九八八年には国の天然記念物に指定されている。現在は池周辺の環境も含め、市民参加の保護活動がなされている。池までの道路は狭く、急坂で容易にアクセスできないのが幸いである。
この日の水の面はヌナワの葉に覆い尽くされ、岸辺一帯は顔を出した狸藻の黄色の花が小首を傾げていた。その上をおびただしい数の蝶蜻蛉が、透かしのはいった黒い薄翅四枚、文字通り蝶々のようにひらひらさせ飛び交っている。これほどの数の蝶蜻蛉は見たことがない。一週間前に誠子さんが下見にいらした時は雨の日で、まだ蜻蛉は数が少なく、帰る直前の燕が宙を切っていたそうである。長旅の前の腹ごしらえをしていたのだろうと。蜻蛉は燕がいなくなったら出てきますよと教えられたそうだが、眼前に今見ているのがその景。蜻蛉たちの喜びが池の全面に満ち溢れている。
その後円通寺へ廻り、叡山借景の間に新涼の気を覚える。昼食、句会と滞りなし。再会を期して三々五々散り行く。
帰宅後あたふた子らの夕食を済ませ、漸く今日の御礼をと喜子先生にメールを入れると、既に本日の句会句稿を整理され、主宰宛に整えられたところとお返事が来て目を瞠る。十日後、その稿の主宰選が返って来て、再び目を開かれる。自分では取れなかった句、自分では良いと思って出した句。評価のはずれたものを再考。よく観察して詠んで、いったん観たものを捨てる覚悟が要るようだ。自分の頭のなかの記憶に凭れていては駄目だ。一旦詠んだからには目の前の五七五ありき、それにつきる。そこにある言葉とそこにある実物。この二つの間には越えることのできない溝がある。言葉は我々の頭の中にあり、ものは我々の頭の外側にある。いかにもそのものが頭の中に存在しているような、そんな言葉を探す。途は細く険しい。
橡11月号選後鑑賞 亜紀子
老母の日記一行秋のこゑ 伊與孝子
百歳になられようかという母君は、読む事、書く事が日課のようだ。もう長いものは綴られぬが、一行の日記は欠かさない。あちらこちらと外出するわけではない。誰彼と会って話す機会があるというでもない。常日頃は離れて暮す娘の立場から、高齢の母君の日々の生活、思い、その他諸々を一行の日記のなかに読み取るとき、そこはかとなく移ろう季が感じられたのだ。なお健やかな母上を寿ぎつつ、僅かの一行に一抹の侘しさを覚えられたのだろう。
ところで、九十二歳で詩作を始められ、既に百歳を迎えた柴田トヨさんを例えにするまでもなく、人間には本当に計り知れない力というものがあると思う。
新涼や朝の日に梳く母の髪 大塚徳子
涼やかな、心穏やかな気持ちの良い朝である。小さくなられた母上のたくさんとはいえぬ毛髪。櫛の歯が肌に当らぬよう優しく梳ってあげる時、細い髪は朝の光に煙るように輝いている。母上からの言葉を想像してみる。きっと、こんな風ではないかしら。
前述の柴田トヨさんの詩の一つ。
風呂場にて
風呂場に
初日が射し込み
窓辺の水滴が
まぶしく光る朝
六十二歳の倅に
朽ち木のような体を
洗ってもらう
ヘルパーさんより
上手くはないけれど
私はうっとり
目をつぶる
年の始めのためしとて―
背後で 口ずさむ歌が聞こえる
それは昔 私が
お前にうたってあげた歌
晩学の我に友あり今日の月 山内節子
晩学の友は、俳句の友であろうか。定期的な句会や勉強会の他にも、季の折ふしに集う仲間。今夜は十五夜、共に空を仰ぎ、月を祀り、ひと時の楽を分ち合う。願わくば、佳き一句を授かりたいものだ。望の月の光が満ち足りた今を照らしている。
音一つ雀蛤明初むる 竹本ともえ
「雀大水に入り蛤となる」中国天文学七二候に依る季語。秋も更け、万物化して潜物となる。雀は海水に入って蛤となるそうな。厨に一夜、桶に漬け置かれた蛤から泡ひとつ。ことりと音を立てる。それきり、再び静寂。まだ薄暗い厨の床の冷え冷えした空気。ようやく白み始めた窓。思い切った省略に、晩秋の気息を伝える。
庭石に夫と安らぐ良夜かな 白井佳峰
ご主人は遠出は叶わぬ身。すずろ歩きといえど、つい庭先まで。夫人は杖役。ちょうど頃合いの庭石に並んで腰を下ろす。望月の光染み渡り、安らぎとはまことこのことかと思う。
花胡桃マリア地蔵へ道細り 関口佐和子
隠れキリシタンの信仰の対象であったマリア地蔵と呼ばれるものは全国各地にあるそうだ。これはいずれのマリア地蔵さんだろう。胡桃の花と細き道が、聖母の優しさ、信仰の慎ましさとをよく示している。