遠花火 亜紀子
星合のまだきに覚めてざんざ降り
学び舎の壷中緑の池ひとつ
高楼に雨降る星の別れかな
暑を言ひて梅雨明けたるを知らざりき
香草園めぐるスカーフ涼やかに
懇談の教師に麦茶もてなさる
目の覚めるほど日焼けせし乙女たち
住み古りて港まつりの遠花火
それぞれに微恙あるらし暑を見舞ひ
軽羅着てときをり勁き語をはなつ
寝まりけり衣魚曵く蜘蛛とひとつ部屋
五位鷺一羽夜涼の声を落しゆく
たらちねの汗の応援立ち並ぶ
短夜や手すさび事に音立ちて
遠花火 亜紀子
星合のまだきに覚めてざんざ降り
学び舎の壷中緑の池ひとつ
高楼に雨降る星の別れかな
暑を言ひて梅雨明けたるを知らざりき
香草園めぐるスカーフ涼やかに
懇談の教師に麦茶もてなさる
目の覚めるほど日焼けせし乙女たち
住み古りて港まつりの遠花火
それぞれに微恙あるらし暑を見舞ひ
軽羅着てときをり勁き語をはなつ
寝まりけり衣魚曵く蜘蛛とひとつ部屋
五位鷺一羽夜涼の声を落しゆく
たらちねの汗の応援立ち並ぶ
短夜や手すさび事に音立ちて
音読 三浦亜紀子
この春に低温が続いた影響か、動植物の間で少なからず異変があると聞く。水木の花も開花が遅れたが、花数は例年通りのようだった。五月半ばの数日間は雪のように花弁を降らし、やがて残った花序の半分くらいは実を結ぶこと無くぽっきりと落ちた。あとの半分は青葉の台の上に顔を上げるようにして、細かないくつもの果実を付け、その実が梅雨明けの頃にはころころ太っていった。乳白色で大きさはブルーベリーほど。表面は滑らかで、ベリーよりはよほど固そうだ。二階の窓から見ると実の数がだいぶ減っている。鵯が一羽啄んでいた。嘴にはさんで上を向くと喉を動かして落し込む。水木の実はやがて緑色を帯び、秋が近づけば赤紫、さらにもっと黒みがかった紫色に変わっていく。未熟の白い実がそんなに美味しいのか、鵯は青葉のトンネルをかいくぐり、あっち、こっちと啄んでいく。そういえば、地べたに落ちた丸い実を、まるで子供の吐き出した飴玉か何かのように、茶色の小さい蟻が取り囲んでいた。やはり美味しいのだろう。庭へ出てまだ蟻の手の付けていない実を一つ見つける。思った通りやや固い、皮を向いた団栗の中身のような色と感触で、栄養はありそうだ。試しに齧ってみる。これはこれは渋くて、えぐくて、とても食えたしろものではない。鵯と蟻にしてやられた心持ち。
この頃月の終りにひと月分ほどの句を父に聞いてもらっている。電話で読み上げて、白か黒か良否の選をしてもらう。余り長くなると疲れるだろうと気を使うが、俳句の話であれば本人は苦にならぬようだ。時にはコメントを挟んでもくれる。電話では言葉が聞き取りにくいのであるが、受話器から漏れてくる音に神経を集中すると汲み取れる。父の言わんとする意をなるほどと合点できた時は楽しい。そうこうして、父との電話のやり取りから確かめたひとつ、ふたつを書こう。
描写の確かな句を読み上げた時と、そうでない作品とでは、電話口の向こうでうーんと言うまでの間合い、発声に微妙な違いがある。概念的、説明の勝った句には反応が鈍いのを感ずる。描写の確かさを大切にしているのは言うまでもないだろう。私には月並み俳句の気があって、油断しているとそれが顔を出す。とたんに父の反応が途絶してしまう。ああ、やっぱりまずいんだなと思う。稍あってからそれは弱いねとか、よくあるねとひと言。
こんなこともある。父自身の未発表の句を三つ並べて発表の是非を聞いた折のこと。良いだろうと思われる順番に読み上げると、先の二句は良いねとコメントして、最後の一句は「誰のだい?」と。お父さんの昔の作ですよと説明しても、てんでピンとこない様だった。それなども、やはり描写の問題であったと思う。
都合三十句から四十句を一度に電話で読み上げても、父は聞いただけで理解する。私であれば、それはどんな字を使うのかをいちいち問いただしたくなるところ。であるから、調べの悪いのは即刎ねられてしまう。
梅雨霧の中高楼の足垂らし
と読んだところ、それは調子が良くないねと
梅雨霧の中に高楼足垂らし
に直された。確かに、これで高層ビルの足が途切れずに繋がった感。
日本の詩歌の始まりは五七音節を中心とした言葉の流れに起源するのだろう。小さな子供でもこのリズムを教えると、思いのほか早く身に沿うようだ。めったに目を使わなくなった父は耳が働く。聞いて分かる、そのスピードは驚くほど早い。いつも調べの良い句を心がけよう。私自身、選句の時は無意識のうちに声は出さなくとも音読している。
さて、電話相談も三回目にして最も適切な指導を受けてしまう。「自分で分からなけりゃ駄目だよ。」
平成23年橡9月号選後鑑賞 三浦亜紀子
山楝蛇またたきもせず蟇を呑む 古松まさ子
蛇には瞼がない。獲物を呑み込む様はまさしく掲句のような状態だろう。見つめている人間も息を呑む。呑み込まれる餌にしてみたら、時が止まっている。
ヤマカガシは田園地帯に普通に生息する蛇で、子供の頃は家のまわりでよく見かけた。蛙を主に食べるので、水田周辺に多いとのこと。それだけに人の生活とも関わりが濃いのだろう。マムシは怖いと教わっていたが、ヤマカガシは毒が無く、大人しいと言われていて少しも恐しい感じはしなかった。しかしその後噛まれた子供が亡くなる例が出て、毒蛇として認識されるようになったそうだ。その死亡例の被害者の一人が主人の友人のはらからであったそうで、その折の新聞記事のスクラップが野外の危険生物というハンドブックに挿し挟まれていた。
ちなみにヤマカガシの毒は二種類あって、そのひとつはヒキガエルを捕食することにより、ヒキガエルの持つ毒の成分を蓄えて利用しているという。
以上はヤマカガシの説明だが、掲句「またたきもせず」に哀れがある。宮沢賢治童話『よだかの星』や『なめとこ山の熊』の世界を思わされる。けれど哀れを思うのは人である私の気持ちで、生き物は恐らく持ち合わせていないだろう。峻厳な食物連鎖の世界で、抗いつつも日々生きている。
屈み見る銀竜草は駒の顔 市村一江
無心に物を見ると、思わぬものに思わざる形を見ることがある。銀竜草は竜に見立てた命名であろうから、竜の顔が見えても良いのだが、近くでよくよく見つめていると馬の顔が並んでいる。馬面とせず、駒の語を使って趣がある。こうした目の力は幼い子供のものだ。言葉や、先入観に左右されずにそのものを見るから。見えたそのものを、そのまま言葉に置き換えると詩になっていく。
駆け抜けし雷雨の浄む大祓 保崎眞知子
恙無くくぐる茅の輪の真青なり 川井佐登子
夏越しの祓の茅の輪潜り。茅で編まれた輪をくぐる時、汚れや罪が祓われ、無病息災を約束される。いつの世も、誰も皆持つ願い。驟雨に洗われた境内も、真青の茅の輪も、どちらも清々しく身の内まで浄められた心地がする。四囲の木々の緑も自ずと目に浮かぶ。
梅雨晴に廻るや烏賊の乾燥機 桑崎時子
梅雨晴れの一時を逃さず、烏賊の乾燥機がフル稼働されている。久しぶりに活気づく港。大き過ぎず、小さ過ぎず、いつかどこかで見たことのある漁港の一日と解して、はたと疑問が湧く。烏賊の乾燥機とはいったいどのような代物なのか。調べてみて、ますます掲句の楽しさが理解された。烏賊の乾燥機とは、児童公園の回転ジム(地球儀型の廻るジャングルジム)のような形で、モーターで自動回転する。横棒数段に烏賊を吊る。回転をかけると遠心力で烏賊は外向きに形良く体を伸ばし、くるくる万遍なく日光を浴びる仕組み。結構な早さで廻るので、蠅が止まらないそうである。平成の世にいづこかの漁村で手作りされたものらしいが、詳しい起源は分からない。特許独占などという物は無く、口コミで各地の漁村に広まったように見える。一度見たら必ずや印象に残る。
緑陰はリトルリーグの控え室 上中夕生江
少年野球の試合の朝。暑い季節、勝ち上がって大きな試合に行くまでは小学校の校庭が勝負の場。屋根付きのベンチなどはない。皆荷物を緑陰に預けての一日。監督のお説教もお弁当も、木陰である。付き添って熱い応援を送る父兄も、休憩時間は緑の陰に入る。