湯布院オイカワ鈎2(20240218)
20240216の続き、作業開始は20240214。
まずレジロン95号のソフトハックル版2本。
次にレジロン95号のピーコックハール版4本。
そしてフラットティインセル茶+金糸のピーコックハール版4本。
比較に撮影し直した20240216のソフトハックル7本。
これで最終の湯布院オイカワ鈎がほぼ揃った。
午前版と午後版を8本マルチで組む。
目標は午前中5時間で四束、まず無理だろうが。
追記)
ドロッパー順位、上から列記。
午前の部:2組作成
1.レジロン95ソフトハックル(既使用鈎)←聴き鈎
2.レジロン95Pkハール(新作鈎)
3.ティンセル茶Pkハール(新作鈎)
4.レジロン95カセットPkハール(新作鈎)
5.赤虫鈎(新作鈎)
6.レジロン95Pkハール(新作鈎)
7.ティンセル茶Pkハール(新作鈎)
8.レジロン95カセットPkハール(新作鈎)
午後の部:これは1組でOK
1.Pk
ストークソフトハックル(既使用鈎)
2.レジロン95ソフトハックル(既使用鈎)
3.ティンセル茶ソフトハックル(既使用鈎)
4.レジロン95カセットソフトハックル(既使用鈎)
5.レジロン95ソフトハックル(新作鈎)
6.Pk
ストークソフトハックル(新作鈎)
7.ティンセル茶ソフトハックル(新作鈎)
8.レジロン95カセットソフトハックル(新作鈎)
五ヶ瀬中下流域でオイカワを狙うには(20240218)
まず河川敷が広いから風が強く吹き渡る。
なのでラインはやや強い番手が要る。
けっこう吹き晒すので、#4ないと押し戻されるし、やや遠投も必要。
なのでナイロンはたとえ30号でも少し難しいかもしれない。
PVCのDT#4Fも良いけれど、ナイロン6号にスペイラインF200gr(13g)も良い。
時間帯はオイカワの上向く午後からが釣りやすい。
ドロッパー間隔はジャム対策で40cm、5本マルチまで、全てソフトハックル鈎。
ロッドはDH#1から#3程度、リールはダニエルソンを使う。
これは成魚放流システムまま、これが本流オイカワになる。
川幅が狭いなら、湯布院オイカワと同じシステムで良い。
放流成魚が釣れたとして、それはどうしようかとなるけれど。
天然ヤマメ当歳魚なら、丁寧にお帰り頂くとして。
成魚放流場での甘味は、あまり考えないほうがよいかもしれない。
いずれにせよ、準備だけはしておく。
塩か砂糖か、その都度考えれば良い。
塩と砂糖(20240218)
天然の大型渓魚が「浄めの塩」なら、養殖の小型放流魚は「甘い砂糖」だ。
塩で身を締めるのは物凄く大切だし、甘い味付けは九州特有の郷土色。
この3月を前にして、日之影川、三ヶ所川、五ヶ瀬川上流部で成魚放流があり、とても甘い体験が釣人を待っている。
日に30匹50匹、人によっては100匹超えるなど「オイカワか」という釣果に恵まれる。
これを甘美と言わずなんと言おうか。
でも甘美さでいえば湯布院オイカワも負けてはいない。
3月4月はまだ可動堰が上がらず、束釣りが広く楽しめるのだ。
それはもしかしたら五ヶ瀬川下流域の平瀬オイカワでも同じかもしれない。
途切れることなく、オイカワウグイが釣れ続くだろうし、それもまた甘美な時間になる。
そう考えると「身を清める」大ヤマメを追ったあと、「甘美」なオイカワウグイに釣り降りが正解かもしれない。
狭い渓流で放流成魚を釣った釣られた獲った獲られたと目クジラ立てるより、広い流れで釣り以外何も考えずに過ごすのが良いに決まっている。
釣りにおける「塩と砂糖」の使い分けは、十分考えておこう。
13cmのオイカワ10匹は、25cmのヤマメ1匹にほぼ匹敵する。
しかも釣れ続くのは天然のオイカワで、放流ヤマメはあっという間に釣り切れ後が続かず他の釣りの参考にもならない。
釣り経験値としての生産性が決定的に薄いのだ、木郷滝自然釣りセンター漁に似ていて。
なので小さいけれど活きた経験値を伸ばすには、断然オイカワなど天然魚を狙うべき。
なら、五ヶ瀬中流域の2時はどうだろう。
あの五ヶ瀬中流域2時は鵜や釣人を生き延びて半野性化する、そんな個体が面白い。
また、簡単に釣られる2時が身代わりとして、居付きヤマメを守っている。
脱走兵だと思うけれど、実はヤマメ守護神な2時たち、敬意をもって大切に付き合いたい。
でもまあ、それとて簡単に釣れはしないのだけれど、特にヒトの多い五ヶ瀬では。
なので浄めの塩として五ヶ瀬川、時々の甘味として下流域オイカワと、それぞれの釣り分けがベストかもしれない。
そうすれば、今巻いているオイカワ鈎は十分役に立つ。
塩と砂糖、これは大事な使い分け。
釣りの両味(20240218)
今の私の場合、釣りの両味は五ヶ瀬と湯布院なのがわかった。
では、東北ならどうだろう。
高校時代、JRで山奥に釣りに何度か入った。
そこは本流の枝のひとつ、小さな駅から深い谷へ降りた、やや広い渓谷。
ヤマメというよりイワナ場で、魚影は少ないけれど日曜午後でも1−2匹は釣れた。
人里はとうに離れ、巨大な砂防ダムをいくつも高巻きして進む場、その一つを越える時。
大きなクヌギの根本が深く掘り返され、土とウドが真新しく匂った。
よくみれば20cmを少し超える大きな足跡がたくさんあり、クマだった。
それも直近のクマ、見渡しても姿はなかったけれど、その土とウドの香りがクマの獣臭を隠したのかもしれない。
私が高一、弟が中一だったからか、クマが近いと感じながら「せっかく来たから」と、気にせず先へ進んだ。
高巻くと現れた青く澄んだ広いプール、しかし延竿は4.5mで太刀打ちできない。
その先は両岸が岩肌に切り立つ渓相、少し釣ってみたが魚信なく、そこで諦めた。
帰り道、中一の弟が滑落しないよう気をつけながら進み、先程のクマのウドの跡。
よくみればクマの大便があり、往路は気付けなかったのだ。
クマが近い。
さっきは釣りたい気持ちが急き、軽く受け止めたけれど、いまは無事な下山が先、でもこのウドの跡こそ、今のクマの危険を意味した。
クマがいる。
弟を急き立て、河原を走るように下り、駅を目指した。
もう大丈夫という頃、改めて振り向くと、あの砂防ダムのクマのウドはもう見えず、そびえ立つ山の端から急落した谷底の広い河原が、午後の日差しに輝いている。
でもその眩い緑は、私と弟を危険に晒した恐怖の色だった。
いや、山深い谷そのものが恐怖だった。
これは東北の山間に共通のリスク、つまり、山奥の神聖さは同時に私たちの死を意味する。
これが北海道なら、ヒグマという桁違いの恐怖が、私たちをさらに待ち構える。
高千穂の谷底に現れる獣、そのうち最も恐ろしいのは人間だ。
その次が猪、猿、そして野犬と鹿、マムシ、スズメバチの順。
でも東北の最恐はツキノワグマ、北海道はヒグマ、この2種が人間の脅威を遥かに超える。
話の通じない相手だから。
九州のクマは全てヒトに食べ尽くされた、という意味で、九州ではクマよりヒトが最恐だけれど、話せばわかるのであり、その点で獣度はかなり低く、九州はどんな山奥でも割と安心して入渓できる。
この点が、九州とそれ以外の地域との決定的な差だと思う、釣人的には。
しかし敢えて東北の山奥について考えてみる。
たぶん危険しかない、その神々しい荘厳は、きっとこの命に手を掛ける。
つまり東北の山奥にあって、神々の息吹きはそのまま私の死を意味する。
なので九州感覚で山奥に入るなど厳に慎まねばならない。
東北北海道の山々は九州ほど安全ではないのだ。
とすると、東北宮城にあって、高千穂のような神々しさを求めるのなら、それは中流域の山間部だ。
江合川なら池月付近、広瀬川なら仙台市内、白石川は松川合流部以下、などがその候補。
でも広い平野なので、高千穂の五ヶ瀬渓谷のような荘厳さは期待できないかもしれない。
五ヶ瀬で安心して身を清めるのは、やはりご当地ならではの体験、その他に換えがないのも当然だ。
なぜなら「天孫降臨」「神話の里」なのだから。
世に二物など、あってならない。
追記)
では甘味はどうだ?
湯布院オイカワのように、11時間も釣り続け、なおも釣りたいなど、そんな甘美な遊興場は東北にあろうか。
あるだろう、いや、あるに決まってる。
そもそもないはずがない。
甘味のない世界などこの日本に存在するはずはない。
それはもしかしたら氷上ワカサギとか港湾チカとか橋上ニシンとか、もう様々。
九州ならショアジギングでオオニベブリカンパチヒラマサそして真鯛が狙える。
もちろん牡蠣イガイの被せ釣りで石鯛イシガキダイカンダイが普通に狙える。
シーバスの日本記録(134cm?)も九州だし、2m近いアカメも釣れる。
小物な湯布院オイカワで喜べるなら、東北にいっても甘い思いなどたくさんある。
その意味で心配は無用。
だからむしろ「清めの塩」的な釣りの方が不安。
でもこれは本流サクラマスなら、クマの心配なく入渓できるだろう。
こちらもかなり「塩的」魚種で、5年10年1匹な世界。
まあ、これは時間をかけ、改めて探そう。
五ヶ瀬のような「清い」本流を。
なんなら時々、戻れば良いのだ。
五ヶ瀬と湯布院の比較(20240218)
五ヶ瀬の谷は本当に荘厳だ。
もともと「天孫降臨」を謳う「神話の里」なので、その谷底こそ荘厳さ約束の地。
まるで禁足地のような聖地で釣りできるのだから、その神徳は計り知れない。
入渓そのものが参拝という「目的かつ結果」化する。
たぶん、釣りというより、時を過ごすという感性の勝る場。
だから、釣果より入渓そのものに価値を感じるのだ。
なので、ボウズ上等となる。
湯布院はどうだろう。
湯布院は国際的な観光地、それこそ色とりどりの人種が行き交う。
入渓していると10時頃にチェックアウトの旅人が遊歩道を歩き始める。
夕前はチェックインの方々が散策、もの珍しいのか撮影されてしまう。
そんな中の釣りになる。
五ヶ瀬と真逆の環境だ。
川辺に香水の匂い、振り向けば旅行客、今度は懐かしい匂い、これはご近所大先輩。
物音話声以外に空気すらヒトの気配を伝える川辺、そんな中で釣りをする。
なぜ。
そこに桃源郷があるから。
五ヶ瀬と湯布院は全く違う。
五ヶ瀬は神の領域、湯布院はヒトの領域、それは場や次元が違うなど、そんな軽いものでなく、世界観や宗教観つまり人間性の差に匹敵するほどの違い、それがこの私の中に生じる。
五ヶ瀬はほぼ神社参拝、湯布院はほぼ観光旅行な感覚だから当り前ではあるけれど、それぞれ夢中に没頭する。
でも釣りにあって、その大きな違いは、五ヶ瀬は釣れなくてよく、湯布院は五束の七束の話になる。
そもそも対象魚が違う。
そしてその魚影も違う。
つまり私は、その別々の部分を楽しんでいるのだ。
五ヶ瀬では神聖な気持ちを、湯布院ではアミューズメントを、それぞれ追い求める。
登山には山岳信仰の要素があるし、遊園地はめくるめく享楽が絶えない。
なので私は、五ヶ瀬に敬虔さを、湯布院に遊興を、それぞれ求めている。
全く違う使い分けだ。
先日の湯布院オイカワで、大分川の河川敷の空に五ヶ瀬のそれを探したが、見つけられなかった。
なぜなら、鈎が入れは釣れるオイカワに追われ続け、ひとときも休まる暇などないのだから。
五ヶ瀬なら、全く釣れないなか、ふと足をあげた拍子に見上げる景色に打たれ、息を呑み、微動だにせず佇んでしまう。
少なくとも湯布院オイカワは、そんな暇を私に許してくれない。
1秒をさらに刻んだスケジュールで、動き続けることになるから。
五ヶ瀬は言ってみれば、その動く必要すら全くなくなる。
料理に大事な要素があるという。
それは両味で、塩味と甘味。
その意味で考えると、私にとって五ヶ瀬は清めの塩、湯布院は甘い快楽になる。
釣りの両味、それが五ヶ瀬と湯布院。
私の場合、どうもそういうことらしい。
日曜朝(20240218)
気温が高く、快晴無風。
今日も一日、好天続き。
昨日朝から今日夕まで仕事通し、自由はほぼない。
タイイングは帰宅後の夜だし、「ちょっと車まで」も昼休みの短い時間。
でももしできれば、車の中を片付けたい。
ネットステッキウェーダーなど使わないのは、家に持って上がるのだ。
これまでバッグロッドリールその他よく買った、フライの授業料として。
これからは、その教材を手放していく。
リールも、思い切って手放すのも良い。
なぜならもうまず使わないから。
ロッドも、今使っていないのは手放して良い。
スリングを使い出してから、ショルダーバックは仕舞ったまま。
何足かのニーブーツはここ数年、出番は全くなかった。
自立型ヒップブーツが、ほぼカバーしてしまうので。
軽登山用の靴も用意したけど、ついに使わずじまい。
無駄ばかり多かったと思う、でもそんな無駄こそ、授業料としての教材なのだ。
思い返せば、小中高の教科書などもう残っていない。
メモリアルな参考書だけ数冊残る程度、でも教材とはそんなものだ。
教材が要らない、とは、それがもう身になったということなのか。
もちろん断捨離後の大慌ては困るから、慎重に越したことはない。
でも教材の処分とは、どんな意味があるだろう。
よくあるのは、卒業と新天地への転出時。
フライことウェットに関して、これを極めた又は辞めるとか決してないけれど、良くも悪くも「凝り固まった」独自スタイルに落ち着いてしまった。
その「偏屈」スタイルから改めて見直すと、目に触れる全てが不要に映る。
どんな心変わりかと、自分でも驚くけれど。
じゃあ、何が要るのか。
それは、あの景色かもしれない。
それさえあれば、あとは何も要らない。
五ヶ瀬の谷底から見上げる空、山の端をわたる風と光、水のせせらぎ鳥獣のこえ。
そしてそこにただ居るだけの自分。
そんな中に釣り道具を持たず佇めば、下手すれば警察沙汰で方々の迷惑になる。
なので少なくとも釣竿は持たねばならない、たとえ針はなくても。
ほかに谷底で絵を描くのもあるけれど、それは他の釣人の迷惑になる。
なので釣り以外の方法はないのだ。
そう考え感じていると、モノなど一切必要なくなる、入渓で使う装具以外は。
雨や水没に耐えるスリングバックひとつで、あとは簡単なロッドとリールで良い。
ネットは安全に針を外すのに必須、でも他はもう、徹底的に要らない。
キャッチキルしないのでビクも要らない。
入渓中は食事しないので食料も要らない。
もう本当に何も要らない。
もちろん、川に立つには理由が要る。
それが魚釣り、その一点で川に立つ。
でもキャッチキルしないので、釣れたかどうか、他人にはわからない。
とすれば、そもそも釣れる必要もなくなってしまう。
ボウズでも全然構わないのだ。
とはいえ、川への立ち込みは無意味ではない。
入漁料を支払うからには、当然魚を釣る気ではある。
なので当り前だけれど、釣れる準備は確実に整える。
しかも釣れそうな勘、釣り上げる技術を総動員して。
でもその結果、釣れる釣れないは自然界の運まかせ。
そこは、個人の願望など少しも及ばない荘厳な世界。
釣れればよし、釣れずともよし。
そこに居るだろう大きな渓魚、それはこの自然の一部であり、自分もそこに馳せ参じた。
つまり釣果は自然の営みそのもの、私の勝手で決まらない。
釣人として全力でそこにいる、ただそれだけでよい。
全力で全身全霊全開放し、ただそこにいる。
そんな3月が始まる。