命-心地よさとは何か4(20250215)
「心地よさ」とは「生きている感覚」だとなった(20250214)。
つまり生きている以上亡くさない感覚だ。
また、私たちは自分の死を知り得ない、つまり私の感覚として私の死はない(20240805)。
なので「私」の「心地よさ」は未来永劫続くのだ。
そう気付くと「心地よさ」を守るとか失わないよう努力するとか一切無駄だとわかる。
だって亡くならないのだから。
亡くならないものは亡くしようがないのだ。
仏教用語では、これを仏性という。
とどのつまり、命そのものだ。
とすると大事なことは、「心地よさとは何か」と考えることではない。
おそらく純粋な哲学になってしまい、答えなどないからだ(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン)。
「この空気は空気なのか?」という問いかけに近い。
だって「生きている」=「心地よい」のだから、ここは哲学的にも詮索の余地すらない。
ならどうするか。
「心地よい」=「当り前」なのだ、生まれた時から死ぬまでずっと。
しかも「私」は生まれた瞬間も死ぬ瞬間も知り得ない。
つまり生きている間中、私の時間は始まりもなく終わりもないのだ。
これを普通は永遠と呼ぶが、その意味で「心地よい」は永続する。
もちろん心身不調に侵されなければ、だが。
希望願望痴情劣情に注意し危険を避ける、そんな当り前の気構えで充分だ。
とすると今この瞬間に「私」に出来ることはなにか、となる。
先日まとめたように「五感の開放」は必須だ。
しかしこれは「希望願望痴情劣情」に囚われなければ大丈夫。
するとこの「私」という意識はどうなるのか、となる。
仏教的に「私」は「意」であり、五感「眼耳鼻舌身」に「意」を加えて「六根」となる(般若心経)。
この「六根」の「意」たる「私」は「今この瞬間の感覚」であり、生命の「心地よさ」がその下地。
「今この瞬間の感覚とは何か」と考えれば、これまた哲学の迷路に迷い込む。
単純で簡単だ、その方向だけ考えれば良いのだから。
「今この瞬間の感覚の方向」は、必ず拡散する。
決して一点集中ではなく。
自然の原野に一人佇むと考えれば分かりやすい。
もし「今この瞬間の感覚」が一点に向けば、その背後周辺がガラ空きで弱点化する。
足を踏み外し肩を引っ掛け姿勢を崩して頭を打つ。
その瞬間から、捕食者の滋養となり始める。
その危険からこの身を守るには。
身の回り全部に注意を払うしかない。
しかしそれは一見過酷で困難な努力に感じる。
が、そんなことはない。
「今この瞬間の感覚」を、拡散させれば良いのだから。
一点に留めようとするから全てを失う。
なら全部放り出してしまえば良い。
そんなことをすれば注意散漫でより危険なのでは、という考え方。
それは「五感」を開放出来ていない場合だ。
「五感」を充分に開放できていれば、「私」である「意」に入る情報は莫大な量になる。
その全てを漏らさず受け止めるには、全方位に「意」というアンテナを立て続けるのだ。
でもそれは「五感」を受け止め続けることに他ならず、それが「私」の拡散となる。
もちろん「拡散」という言葉以外にもっと適切な単語はあろうが、今はこの単語を充てている。
不思議なもので、釣りなど野外活動や日常業務などで、身の回りの変化を見落とすことがない(少ない)。
五感が効き「私」が拡散できているのだ。
かといって全てが上手くいくわけではない。
上手く行く行かないは、もっと別のスキルの次元で、ここで取り上げるのは不適切。
あくまでも「過去、今、未来」そして「命」の座標軸での「私」の再定義でしかない。
今まで何をしてきたか、といえば以下の5点。
1)「過去、今、未来」の時間軸と「私」
2)「今」ある「私」としての「命」の「心地よさ」
3)「私」を構成する「五感」の方向性
4)「私」を構成する「意」の方向性
5)「五感」と「意」の方向性
つまり私は「拡散」していて良いとなるのだ。
この「拡散」はボーっとすることではない。
しっかり覚醒している状態だ。
「目覚めよ」に他ならない。
だからまとめると「目覚めよ(五感)、そして拡散せよ(意)」となる。
言い換えると「五感を開放し全部知る」または「感じるまま感ぜられるまま」となる。
しかしなんとまあ、その無駄さ加減に哲学者もびっくりだ。
誰の役にも立たない。
でもそれでよい。
私だけの独り言だから。
生きている証し-心地よさとは何か3(20250214)
今日はバレンタイン、でも義理チョコは絶滅種なので家族からの本命を待っている。
でその間、また性懲りも無く「心地よさとは何か」について考えている。
以前「心地よさ」とは「個人で感じる美」(20240811)であり「生きている感覚そのもの」(20221011、20231026、20241224)と考えた。
昨日は昨日で「生命の喜び」であって「生きている満足感」だと考えた(20250213)。
単に「心地よさ」を言い換えているだけなのだけれど。
この「心地よさ」は、飲酒の二日酔いや流行り病で具合が悪い時や、物理的な不眠や、怒り・不安・心配事などで弱体化する。
(でも小さな骨折など少々の怪我では、ほとんど影響されない)
病気や不眠など内臓のひっくり返るような出来事は決して「心地よい」ものではないが、これは当り前。
問題は、怒り・不安・心配事など気持ちの問題で「心地よさ」が掻き乱される件。
仏教はそこを「拘るから悩み苦しむ」ので「煩悩を手放せ」という。
たしかに怒り・不安・心配事などで苦しむ時は頭の中がそれで一杯になる。
それこそ、希望願望が叶わない状態、または痴情劣情に苛まれる状態だ。
つまり過去に後戻りし現実ではない悪夢の床枕に就いたままになるのだ。
なら、目覚めれば良い。
すると、「心地よさ」の損なわれる原因は「身体不調」か「悪夢」の二択だけとなる。
それ以外では「心地よさ」を基本亡くすことがない。
そう考えれば、体調万全でも「心地よさ」だけが乱されるなら、「過去という悪夢」にあるから、早く目覚めれば良い、となる。
本当に簡単な一言「目覚めよ」で解決するのだから。
昨日考えたように「心地よさ」さえあれば、私の立ち位置は今この瞬間から前へ向く。
次の瞬間の私の行動を決め、そして私の未来を創るのは、今この瞬間の私そのものである「勘」。
つまり「心地よさ」と「勘」さえあれば、他に何もいらない。
安心して前へ進め、となる。
negativeな気持ちは夢も同然、目覚めよ、そして前へ進め。
生きている証しである「心地よさ」が私たちを支えてくれる。
たぶん私たちは、かなり強い。
未来-心地よさとは何か2(20250213)
開放のあと(20250213)の続き、「未来」について。
今のこの「心地よさ」があるとして、その先に何があるか。
「心地よさ」は満足でもあり、さらなる欲求を鎮める。
なにもいらない世界。
でも自然原野に停まれば死を意味するし、文明生活でも衣食住を維持するため仕事または収入が必要。
そのため、今この時に、私たちは次の瞬間を安全に手に入れるために努力する。
原野では安全な場所に移動する、日常生活では仕事に出るまたは家事をする。
それは明日を保証する取り組みであり、私たちの勘がそう命じるからだ。
食べた後を片付ける、脱いだ服を選択する、家の中を掃除する。
その全てが明日の生活を整えるし、それがなければ明日は乱れる。
よりよい明日を予測し今に行動する、私たちの勘の命ずるままに。
その結果、大河に橋を掛け山脈を穿ち星座のはるか向こうへ、私たちが辿り着く(20240722、20240811)。
つまり私たちの勘が私たちの明日を決め、そして未来を創るのだ。
その意味で「勘」は今この瞬間から「未来」への営みと言える。
今この瞬間から後ろの「過去」である「希望願望・痴情劣情」の対称だ。
では「今この瞬間」とは何か。
それこそ「私そのもの」なのは以前考察した通り(20240801)。
今この瞬間の感覚が「私そのもの」であり、その過去が「希望願望・痴情劣情」であり、その未来を「勘」が創り上げていく。
もちろん、その「勘」の築く未来を「今この瞬間」は知り得ないが、少なくとも過去の「希望願望・痴情劣情」に照して期待する。
つまり「希望願望・痴情劣情」から期待し得る未来の創造を「勘」が目指す、正にその今この瞬間の主人公こそ「私」なのだ。
「私」は過去にも未来にも存在しない(20240715)。
たった今この瞬間が「私そのもの」だ(20240715)。
そう考えると私の中の時系列がよりはっきりする。
過去の「希望願望・痴情劣情」、今この瞬間の「私」、そして未来としての「勘」がある。
今日一日の考察をまとめる。
今この瞬間の「私」の「心地よさ」は、過去の「希望願望・痴情劣情」から目覚め、「私」の五感が開放され(20240722)、目前一面に渡る「勘」がよりよい未来を創り上げていく営みそのものを意味する。
なので過去の「希望願望・痴情劣情」に拘れば、たちまち今この瞬間の「私」の「心地よさ」を見失う。
「雲門広録、巻上、莫妄想:妄想することなかれ」これすごく大事。
確かな未来を創るため、過去の「希望願望・痴情劣情」に耽けることなかれ。
開放のあと-心地よさとは何か1(20250213)
今に目覚める(20250213)の続き、「開放」のあとについて。
今この瞬間に自分を開放したあと、「心地よさ」だけが残る。
もし少しでも不安あるなら、それは「勘」が働く証拠、早めに対策済ませたい。
目覚め開放された後の「心地よさ」これはすでに考察済み(20241224、20250117、20250125)。
この「心地よさ」は私たちのみならず全自然界の生命の喜びでもある(20240802)。
ここから生まれる笑いや笑顔が絶対正しい。
そしてこの「心地よさ」は開放の先にある。
この開放は目覚めの先にある。
そして目覚めは希望願望・痴情劣情の終わった先にある。
なので「心地よく」ないなら、まだ目覚めていない。
もし「心地よい」なら、安心して真っ直ぐ前へ進め、私。
「諸和尚子莫妄想。天是天地是地。山是山水是水。僧是僧俗是俗。」〔雲門広録、巻上〕
「茶席の禅語」の「山是山水是水」より一部抜粋です。
http://verdure6.web.fc2.com/index.html
今に目覚める(20250213)
こういう緩い時にそこ進めておく。
「希望願望・痴情劣情」はさきほど記録した(20250213)。
次は「勘が目覚める」ことを考える。
勘が冴えるつまり「今に目覚める」は単なる刮目と違う。
刮目はワザと眼を見開き網膜に現状を強制的に映し出す行為だ。
そんなことは決して長く続かない、疲れるからだ。
なので正しくは、今ある現状への網膜「開放」だ(20240805、20241123)。
驚き開き切った瞳孔に、ありったけの光景を注ぎ込むのだ、好き嫌いに関わらず。
たとえ「希望願望・痴情劣情」がそれを拒んでも。
現状シフトが正解で、それが「目覚め」だ。
まあ寝てたら現実が見えないので当り前なのだけれど敢えてそれを言う。
「目覚めよ」希望願望・痴情劣情の夢から、そして「開放せよ」私を今この瞬間に
山河で夢見れば山河で死ぬ。
生きて還るため「目覚めよ」私。
行住坐臥みな同じ。
希望願望・痴情劣情(20250213)
希望願望・痴情劣情を「私の中の他人」、そして勘を「私の中の私自身」と表現した(20250211)。
でもそのままだと人間性そのものである希望願望・痴情劣情を否定するので正しくない(20241216)。
そこでよく考えてみると「希望願望・痴情劣情」は、実は記憶に残った出来事である「私の過去」そのものだった(20240802)。
なのでこう表現するのが正しい。
希望願望・痴情劣情は「私の過去」そして勘は「今の私」
過去を引き摺ることは、朝のまどろみに負け起き上がれないと同じだ。
だから「目覚めよ」となる、目覚めないと遅刻し大事件になるからだ。
ヒトの社会的な喜怒哀楽や人情味の正体は、希望願望・痴情劣情への共感だ。
なので社会生活において希望願望・痴情劣情は必須の嗜み、でもそれをどう嗜むかで未来が別れる。
希望願望・痴情劣情という過去に耽溺すれば未来は閉ざされ、希望願望・痴情劣情あるものの今を直視できれば未来が拓ける。
ことさら後者の場合、まるで古い友人のように「希望願望・痴情劣情」が甘く囁く。
「堅いこと言うなよ、一緒に遊んでいよう、難しいことなんて考えなくていーよ、楽しければいーじゃん」
"でもそれヤバいって、このままじゃダメって絶対"
今の状況に触発された「勘」たる「私自身」が言い返す。
この時私の中で、過去の私と今の私が闘う、過去の甘いぬるま湯と未来の冷たい水行を賭けて。
多くは、甘いぬるま湯を選ぶと思う。
そこを敢えて厳しい苦行荒行を選ぶ、その意味。
未来の選択の結果でしかない。
つまり微睡み(まどろみ)続ければ未来を失い、目覚めれば未来を得る。
その意味で「希望願望・痴情劣情」は「私の中の他人」よりも「私の幼馴染」と解釈する方が良い。
その幼馴染がどんなに望んでも、私の人生の操縦桿は握らせない。
その操縦席は今の私自身つまり私の「勘」の指定席だから。
運動できないと体重が増える(20250212)
1月上旬から2月中旬まで満足に竿を振れなかった。
クランが重くてキツくなったのもあるけれど、単純に寒かったのと咳が続いたからでもある。
寒くても咳が出ても楽しければ無理できるが、クランの連続投げ込みは辛い作業だった。
筋トレもそうだけれど、いきなり高負荷でガチャンガチャンやればあっという間にキツくなる。
でトレーニングルームから、しばらくは足が遠のいてしまう。
それと同じ構図だ。
先日、クランでピッチを下げ左右交互にキャス練すれば筋トレになると考えたが、その辛さはなかなかのもの。
そう易々と気持ちのハードルは越えられない。
やはり700grが使えるDH15ft#10が欲しい。
とはいえ今は資金繰りで手が出ない。
現行のDH13.8ft#8/9を投げ倒すしか無い。
自分自身への言葉(20250211)
「目覚めよ」
昭和の街塀に釘付けされた錆びたブリキ板にそう書いてあった。
ようやく読めるこの言葉だけが記憶に残る。
そのブリキ板を釘打ちされたお宅の板塀、錆びた釘でもうボロボロ、よく許したなと思った。
今でも極端な田舎の廃屋の板塀に見かることもあるが、新しいのは稀。
そんな古びたブリキ板の決まり文句「目覚めよ」。
普段、希望願望そして痴情劣情にまみれる日常に、その隅々まで冴えた勘を張り詰め続けるのは難しい。
私はヒトだから希望願望痴情劣情から逃れられない。
が野生動物でもあるから生き延びる勘を持っている。
ヒトであることと野生動物であることは相反するけれど、そこの折り合いは必要だ。
では、どうするか。
朝起きて仕事行ってある程度すると手が空き、あれこれ無駄に遊び出す。
まだ成すべき仕事は山積みなのに。
「早くやるべき」という勘より、希望願望痴情劣情が勝るのだ、私ヒトなだけに。
これを、どうするか。
「目覚めよ」
普通こんな文句を他人に言うのは非常識だ、それがたとえ宗教家であっても。
だれでもみんな目は覚めている、だって今こうして起き上がって活動しているんだから。
そこを「目覚めよ」なんて横暴すぎる、勝手にヒトのことを決めつけてケシカラン。
だからこそ「目覚めよ」なんて、他人にいう言葉では無いのだ絶対。
でもそれを私は私自身に言う。
私の中の赤の他人「希望願望痴情劣情」に対して、ではなく、私自身である「勘」に言うのだ。
勘よ、いつまで寝てるんだ、もういい加減目を覚ませ、そして私に路を示せ。
「目覚めよ」私の勘よ
そして「成すべきことを為せ」私
ということで、今日は今から湯布院に釣りに行って冷凍ワカサギを買って娘にワカサギ天ぷらを振る舞うのだ。
今日のこの晴れた一日、それがベストだと私の勘が私に命ずる。
休日に仕事している場合では無い、どんなに切迫したとしても。
この決定は絶対だ。
「目覚めよ」私。
さて2月11日(20250211)
昨日考えて今日のことは今日決めようとなった。
その今日が今まさにその瞬間。
朝から無風快晴、絶好の釣り日和。
奥「今日はどーすんの?」
まだノープラン、これから決めるのだよ
奥「ちょっと、困るんだけど!」
なかなか自分のタイミングで決まらない。
今週末おわり(20250209)
今週の土日は不意の仕事で自由時間がなくなった。
そろそろ五ヶ瀬の下見タイミングだが、その時間も取れそうにない。
ライズを探すなら解禁直前がベストだが、それも難しそうだ。
解禁日3/1も午後2時間のみ、翌3/2日曜も午後4時間のみ。
3/3月曜も19時には帰宅、3/4火曜は早朝出発なので五ヶ瀬朝イチは無理になる。
今年3月は広く投げ回すだけの五ヶ瀬川になるかもしれない。
ほかは短時間のショートスポットがいくつかあるだけ。
とはいえ今年4月以降はスペイのリバーシーバスが主。
なので今年3月の九州渓魚はかなり手薄になる。
まあ今まで漁師かというほど釣り三昧だったから、ここは諦めが肝心。
「お前はもう十分に釣った」
大して釣った気はしないけど、そういうことにしておこう。
大分県北部(20250206)
火曜水曜と大分県北部の雪はすごかった。
気温もほぼ氷点下ちかく、吹き付ける風は異次元の寒さ。
朝は路面凍結で靴底が滑り、あちこちで追突事故発生中。
バスも来ず、移動はタクシー頼みに。
路面凍結すごいですね
「ウチはスタッドレスだから大丈夫じゃぁ!」
チェーンは使わなんですか?
「チェーンは切れるしのぅ、ゴム製のがいいんで!」
ゴム製ですか、10年ほど前に使って切れてしまった
「今のは大丈夫じゃ!3万ほどで脱着もはやい!」
なんでも昼間のうちに練習しておくと良いらしい。
「イエローハットとか専門店なら間違いない!」
ワタシ、ホームセンターで5千円くらいでした
「そらー切れるわ、わはは、わはははは!」
タクシー利用は合計4台、その運転手さんは皆異口同音。
イエローハットで3万クラスのラバーチェーン購入決定。
追記)
まだ激しい寒気は日曜まで続く予報。
こうも寒いとキャス練すら出来ない。
夏暑く、冬寒い。
でも冬の東北北海道より恵まれている。
何なら高崎山くらい登っておくか。
大分は大寒波中(20250204)
朝から氷点下、晴れているのに雪が舞う。
路肩が白く固まっている。
3日間の大寒波が始まった。
車移動は断念か。
今週は寒波(20250203)
明日から寒波の予報、大分の交通事情は雪に弱く大混乱の予測。
チェーン常備の奥の車に乗り換え、明日に備える。
週間予報でも今週末はさらに極寒、外出すら躊躇うほど。
でも全凍結するまではなく、実釣以外なら何か出来る。
極寒のなか、高崎山登山?鶴見ロープウェイ?
そこを敢えての湯布院オイカワ?遭難覚悟で?
雪と路面凍結さえなければ意外と自由か。
なんなら極寒キャス練、まずは模様眺め。
オトコは黙って3D(20250202)
奥がいうには、女には幾つかの大切さがあると。
綺麗さ、華奢さ、繊細さ。
それは男だって同じ、でも何かと考えた。
見つかった。
オトコの3Dだ。
本流師なら、川、魚、ディープウェーディング。
山岳渓流師なら、山、川、魚。
海釣師なら、海、コマセ、魚。
田舎の子供なら、用水堀、フナ、ミミズ。
アルピニストなら、山、野獣、野宿。
キャンパーなら、テント、自炊、野宿。
全部略して「3D」。
このDが「(heavy)Duty」や「Dirty」の略。
オトコは汚くもワイルドたれ!
が、たぶん奥に評価されない。
スカした眼で蔑まれるだけ。
でも私はオトコ、黙って3Dじゃ!
ということで、3月からの釣りを考えてみた。
五ヶ瀬川下流域でディープウェーディングしてノーフィッシュ。
五ヶ瀬川中流域でディープウェーディングしてノーフィッシュ。
津江川でディープウェーディングしてようやくフィッシュか。
たぶん3月はここで終わり、後半は宮城実家で畑を耕すことになる。
1日では終わらず3日はかかるかも。
すると釣りは無理筋。
畑、耕運機、土いじり。
いずれ3D、どちら向いても。
土曜雨(20250201)
朝から始まった雨が昼過ぎには本降り。
ついさっきも大分市に豪雨予報がでた。
午前の仕事明けで昼から職場の自室に来てみた。
途中で弁当を買い込み、それもさっき食べてしまった。
今日ここにいるのは個人的な作業が目的、平日には絶対できない。
でもそれもほどほどに、早々と温泉へ移動する予定。
とはいえ、もうこんな時間になってしまったが。
なかなか思うように進まない。