デッサン(20250306)
朝の出勤直後、たった今見てきたことを書き記す。
車に乗り街路樹を走り山合いと木立を抜け東雲に向き合い職場に到着する。
その間に見聞きし感じたことを忠実に書き下ろす。
朝まだ早いから仕事に支障なく、新鮮な感覚でPCに向き合い書き出していく。
この作業は早ければ早いほど良く、少しでももたつくと、その瑞々しさが崩壊する。
書き出した行間がぼやけてしまうのだ。
色も音も匂いも味もその想いの全てが崩れていく。
本当にもったいない。
心象のデッサンだ。
考えるためのツール(20250304)
先日の五ヶ瀬でPCを持っていかなかった。
スマホなどタブレット端末はあったけれど、無線LAN登録が面倒で時間をかなりロス、以降、止めてしまった。
考えたのは、明日の釣場どうしようかということ、3月2日の夜だ。
本流に入った3月1日2日と全然釣れず、明日も釣れる気がしない。
気付いたのが「魚を釣りたい」という気持ち。
この時期、尺上がバンバン釣れ、SNSその他に釣果がビシビシ挙がる。
今季はどうもそれがない、サッパリないのだ。
つまりこの本流域には魚がいないらしい。
すると明日また本流域に入っても全然ダメな予想が軽くついてしまう。
ダメと解っててまた入るのかオマエ。
夕方から温泉に入り、湯上がりのスイーツを楽しみ、布団に包まる。
そして明日の予定に悶絶した。
釣りたい、でも釣れない。
確実に釣れるのは成魚放流の支流域、でも釣りたいのは釣れない本流域。
いっそ支流ならガバガバ釣れる、そんな釣りをするから当然だ。
でもそれは私の求める明日ではない。
恍惚とする釣れまくる体験は過去の記憶の幻影だ。
メチャクチャ釣れた過去の記憶が蘇り、その快楽が私を苦しめる。
だって明日はそれが無いんだから、ただの思い出なのだから。
「でも」と過去の私がささやく。
「明日日之影川に行ってみればいいじゃない、馬見原上流にいけばいいじゃない、メチャクチャ釣れるよ」
その通りだ。
魚を釣りたければ、何なら木郷滝自然釣りセンターに行けば良い、この大事な解禁3ヶ日に。
この誘惑こそ「希望願望」で、明日の釣れない自分は哀れな「痴情劣情」そのものだ。
なら釣れない「痴情劣情」を避け「希望願望」を選択し成魚放流河川に直行するのか。
とすると今この瞬間のベクトルが未練タラタラな過去へ内向き、それで良いのかお前。
これは絶対いけない選択、何を血迷ったか。
「未練ない明日」こそ最善じゃないのかお前。
今のお前にとって「未練ない明日」って何だ。
大爆釣より釣り下る体験じゃないのか。
「魚欲しけりゃ魚屋」行けってんだ。
そこまで考え、寝落ちした、午後9時半すぎ。
本来なら文字に記して考えるが、今回は頭の中だけ、それで寝落ちした。
文房具使わずただ考えると、睡魔に負けるらしい。
ちなみに翌朝4時起き、釣れない本流上流域へ迷わず直行した。
迷ったら本能に従えと。
昨日の迷いは何だったんだと。
で猛烈な雨、危険な勘が働きダム上の本流域断念、ダム下の本流下流域へUターンした。
でノーフィッシュ、解禁3ヶ日が終了した。
清々しい。
もし成魚放流支流で大爆釣しようものなら、たぶん過去にガップリ捕まっていた。
そもそも成魚放流大爆釣は木郷でもそうあるように、素晴らしい体験だ。
でもそれは、私の今そして明日と未来ではない。
ヤマメが全然釣れない未来があってよい、というか、それが現実の明日で未来な九州本流。
そこに駄々こねても仕方ない。
今ある明日へ進む以外なし。
前へ-心地よさとは何か14(20250227)
ベクトルを考えていた。
私のいる場所は今この瞬間しかなく、その他は実は存在しない。
でも実際には過去や未来がある、私の中の仮想空間として。
その私の過去や未来は今は存在しないけれど、過去あった、または未来あるかもしれない空想妄想、希望願望な世界。
しかし私の中にベクトルがあり、今この瞬間からどちらかに向いている。
未来か過去か。
過去にベクトルが向くと、現実から逃避してしまう。
そのベクトルに乗じて放置した目の前の問題は、さらに悪化していく。
未来にベクトルが向くと、作業効率は遅延する。
未来に想いを馳せる時間が作業を進める時間なので、広い意味で現実逃避になってしまう。
じゃあ自分のベクトルはどう定めたらよいのか。
過去の全部と未来の半分「未練ある希望願望」はヒトとしての証しで、純然たる未来は「未練ない希望願望」(20250223)。
自分のベクトルを向けるべきは、その純然たる未来「未練ない希望願望」で、それは野生の「勘」が教えるリスクの最も少ない方向だ(20250211)。
「未練」の正体は満たされぬ欲求の塊りで、それが私の手足を縛り耳目を覆う。
その「未練」ない方向こそ安全かつ正しい。
そうすると「未練」ないベクトルが最善手。
今この瞬間に向くべきは「未練」ない明日。
いざ。
火曜朝(20250225)
気温-3度、朝7時、まだ小学生の登校は始まらない。
通勤路はヒトも車もまばら、何かあった?
いつもの山路から木立を抜けると、山の端から朝日が覗く。
今日も負けたかと走らせると、その山影に朝日が隠れた。
ちょっと勝ったと思い違う瞬間。
その馬鹿馬鹿しさに少し笑った。
さて、今日一日がまた始まる。
追記)
今朝は気温がものすごく下がったらしい。
それで人通りも少なかった、納得。
リミテーション-心地よさとは何か13(20250223)
リミテーション(limitation)は限界という意味。
簡単には、淡水ウェッターである私は、ショアブリを釣らないし、ましてやオオニベ、座布団ヒラメ、サワラ、シイラ、マグロ、カジキなど釣らない。
淡水ウェットというジャンルが釣りの限界:リミテーションになっている。
その他に、大勢の美女にモテまくるとか、際立った指導者として担ぎ上げられるなどもない。
私自身の限界:リミテーションが、そこにあるからだ。
こういう考えは先日すでに済ませていて、その結果、私は「辻の地蔵のような善い空気」が関の山、となった(20250120、20250125)。
これはこれで正解、それが私のリミテーションだから。
その私の「リミテーション」から勘、希望願望・痴情劣情、選択肢の方向性を考えてみた。
すると、勘はリスクと可能性を教えるが同時にそれは私のリミテーションの中にあり、それは希望願望・痴情劣情もそうで、さらに選択肢の方向性すらそうだった。
実は私は、自分のリミテーションの中で生きている。
自然界ではそれをテリトリー(縄張り)とよび、野生動物はそのテリトリーの中で暮らしている。
ヒトの場合、そのテリトリーとは物理的より観念的な意味合いが強い。
仕事の縦割りとか横の繋がり、業種別の棲み分けがその好例。
つまり私たちは社会人で有る無しに関わらず、リミテーションの中で暮らしている、他の野生動物と同じように。
私もその一個の動物として、この身のリミテーションを弁えねばならない。
一匹のオスとして、群れの中の一匹として、そしてこの種の一匹として。
私自身をただの動物としてみると、縄張りの範囲、つまりリミテーションの全体像が見える。
そのリミテーションを踏み外すところに痴情劣情があり、その意味でリミテーションの中にあるなら安全、どんな希望願望に突き動かされても。
逆に考えると、素直に希望願望に突き動かされるヒトは、実は自身の限界をよく知っているのもしれない。
だから希望願望も安全圏にある。
すると怖いのは、自分自身の限界を知らない場合。
リミテーションという自然界の縄張りを踏み超えて、危険域へ出てしまう。
2022年3月14日の私の滑落臨死事故もそれだった。
飲まず食わずで体力を度外視し、危険なガレ場を登る最中、脚の脱力を招いた事故。
あれも私自身のリミテーションを超えてしまった結果。
社会生活でのリミテーション超えは社会的失敗で済むが、自然界では即死ん直結する。
だからこそ、勘の見渡す範囲とその選択肢の基準を、私自身のリミテーションの中で見定めねばならない。
そのリミテーションとは、私に出来ること出来ないことの境界線。
分かりたくない、でも実は嫌というほど知り尽くした線、私という持って生まれた生物的特性だ。
その特性は否定も肯定もできない。
なぜならただそうあるがままだから。
辻の地蔵はどこからみても辻の地蔵で、それ以上でも以下でもない。
否定も肯定も出来ない。
辻の地蔵は、どこまでいっても辻の地蔵。
正しいも間違いもなく、ただそのままの姿でそのままいく。
その意味でリミテーションとは、私たちの外殻かもしれない(20240707、20240709)。
自然の中にいると私の身体の自然が目覚め、私の内側から外側まで自然と同化してしまう、文字通り、私の外殻だけ残して。
でもこの外殻があるからこそ私は私であって、これを失った時、私は自然の養分に還る。
文字通り、私の生死の境い目。
そうすると私自身のリミテーションとは私の外殻であり、生死の境い目であり、それは私の勘が危険と安全を見分ける線、つまり、私の命の境界線だ。
ここを超えれば死ぬので、そうならないよう勘が私を守る。
しかし私の外殻の内にあるヒトとしての希望願望・痴情劣情が、その境界線を踏み越えさせようとする。
私のリミテーション(限界)は、勘に守られた私の生存限界線。
そこを踏み越えぬよう、気をつけよう。
さて日曜日(20250223)
朝イチのアウトプットを済ませた。
最後のひな祭りの準備をするのだと奥。
雛壇を飾る部屋の片付けが必要、つまり釣り道具の整理だ。
始めてみると結構やっかい。
まず解禁から使うタックルの選別。
次に売り出すロッドの抜き出し。
そして最後の再整理。
ああ、面倒。
朝イチのアウトプットで、迷ったら一刀両断「どーでもいい」が効くと考えた(20250223)。
いまこそ、その刃を振るうべき。
片付けを始める/始めない、でもその選択肢は勘と努力/怠惰から「始めない」など有り得ない。
じゃあ「始める」として、それは今か今じゃないか。
「今/今じゃない」を考え続けること自体、「今じゃない」選択をしたと同じ。
「放置」「あえて決めない」のではなく、これは「怠惰」の選択でしかない。
もう既に棄却したはずの選択肢、それを延々引き摺る、それは怠惰への執着でしかない。
怠惰とは「過去」そのもの。
目覚めよ私。
希望願望5-心地よさとは何か12(20250223)
寝てて思ったのだけれど、「希望願望」が二択な時の「あえて決めない」(20241216)は要注意。
先日の考えで「希望願望」には「努力」と「怠惰」の2ベクトルあることを知った(20250220)。
とすると、2つの「希望願望」に迷った時、少なくとも捨ててしまえる選択肢があるかもしれない。
「怠惰」のベクトルだ。
もちろん身体も心も弱った時は、正しい判断は難しいので「あえて決めない」のもありうる。
でも身も心も壮健なら私にとって正しい選択をするべき。
それは「努力」しかない。
でもそう考えると普通は選択に迷わない、なぜなら私の答えはいつも肌身離さず持ち歩くので。
その一方で、「希望願望」のベクトルの同じ場合が問題だ。
努力するにも2方向、怠けるにしても2方向ある場合。
その際あえて決めずの「放置」を考えた(20241216)が、そのベクトルにも重い軽いがある。
リスクに敏感な「勘」そして努力/怠惰の「比重」さらに見返り・取り得の「有無」だ。
二者択一の場面では、この3つを必ず比べる。
まず安全性を「勘」で、そして見返り・取り得の「有無」、最後にその苦楽の「比重」を確認する。
普通は安全性と苦楽「比重」はほぼ同じで見返り・取り得の「有」る対象だけが違う。
多くは「たくさん釣れた」「美味しかった」など物理的な見返り・取り得で、「満足」「感動」など観念的な見返り・取り得の可能性は少なく感じる。
でも「魚釣り」より「映画」、「食い道楽」より「スポーツ観戦」を選ぶヒトも多いから、違うヒトの間で比べても意味がない。
考えるべきは同じヒトのなか、つまり自分自身でどうかということ。
「見返り・取り得」の特徴が、「物理的」か「観念的」かの違いだ。
つまり二択で迷えば最後は「物理的」か「観念的」かの選択になる。
ここで敢えて「観念的」を選べば、その実利は薄まる。
でもそのどちらを選ぶかは個性の問題なので客観的に正誤などない。
すると実は迷っている「物理的」選択への未練が問題になる。
簡単なことだ、意味のない未練など蹴飛ばせば良いのだ。
「どーでもいい!」
この掛け声は「選択の放棄」ではなく「執着の棄却」だった。
無意味かつ有害な「希望願望」への執着を一刀両断する時の声。
「どーでもいい!」
これ非常に大切な用法だった。
私の用語集に再収載決定。
希望願望4-心地よさとは何か11(20250220)
昨日の考えで「希望願望」の「努力」と「怠惰」のベクトルがわかった(20250219)。
これを時系列に乗せると「努力」は未来進行形に、「怠惰」は過去退行形になる。
すると「努力」的「希望願望」は未来予想と同義語で、「怠惰」的「希望願望」は現実逃避と同義語だ。
この過去退行形の「怠惰的希望願望」は現実逃避で防衛(適応)機制の「逃避(回避)」に相当し将来的にトラブル不可避。
https://ja.wikipedia.org/wiki/防衛機制
すると現場で死なないために、努力的な「希望願望」だけを拾い、怠惰横着な「希望願望」を無視することがベストだ。
現場で必要なのは「生き残る努力」であり「貪り耽る欲望」ではない、物理的にも社会的にも。
つまり「希望願望」のうち完全に処分すべきは「貪り耽る欲望」だけで良い、となる。
よくよく考えてみれば友人同僚も同じで、同じヒトとして、ある程度「希望願望」を共有する。
その際、私の内なる他人である「希望願望」と完全な他人の「希望願望」の共通項が社会生活を可能にしている。
その意味で私の内なる他人「希望願望」は社会人として不可欠だけれど、一方で大きく2大別できてしまう。
それが「努力系」と「怠惰系」。
そのどちらに所属するかで人生の選択と未来は大きく変わる。
この「努力系」と「怠惰系」は一見して見分けられない。
テラトコの山口さんは、見た目イケイケのヤンチャ系だが、実はバリバリの「努力系」。
私の釣りが在らぬ方へ逝ってしまってお伺いが激減し不義理が永く続くけれど、貴重な存在だ。
希望願望3-心地よさとは何か10(20250219)
「希望願望」は実はヒト一番の弱点。
どんな強がりも、隠れた欲求の攻略に弱い。
滝壺や本流の立ち込み、北海道原野の源流、台風直後の取水口。
そこは魚の宝庫かもしれないが、同時に死の5秒前な場で激しく危険。
それでも釣り続けたりする、大物の大釣り出来るかもしれないので。
そんな「希望願望」に私たちはめっぽう弱い。
でもその「希望願望」はヒトの証明であって逃げられない。
ならどうするか。
「希望願望」には未来系/過去系があり、さらに努力系/耽溺系に分かれることを考えた(20250218)。
その時系列は、努力系が未来へ、耽溺系が過去へ向かう。
すると、未来へ努力する方向は生き続けることを意味し、過去を貪る方向は単純にサボることを意味する。
そう考えると「希望願望」は努力の領域とサボる領域の2系統になる。
イソップ寓話「アリとキリギリス」と同じ構図だ。
その境界線なら、努力する「希望願望」は善、サボる「希望願望」は悪となる。
「希望願望」のうち、努力を要するのは未来を叶えることだから、善なのは当然だ。
生き還るために、危険な場への立ち入りでは最善の準備調整を完了させる努力が必須。
危険な場に努力なしで立ち入るのは蛮勇を通り越し怠惰ですらあり、死去に一直線だ。
つまり、優遇すべきは努力の要る希望願望であり、放棄するのは怠惰な希望願望となる。
その「希望願望」、努力か怠惰か、その二択で見直せば扱いに迷わない、かもしれない。
希望願望2-心地よさとは何か9(20250218)
また性懲りも無く。
「希望願望」には未来系と過去系の2系統ある。
まず過去系について考える。
過去の思い出や記憶の再現を望む場合だ。
例えば巨大魚を沢山釣ったという強烈な成功体験。
初めての桃源郷を経験したスナック・キャバレー。
その再現を望み、危険を押して深入りしてしまう。
これが最悪の過去系「希望願望」だ。
次に未来系について考える。
次の瞬間以降の成功を望む場合だ。
例えば試験に合格する、新しい職が決まる、など。
または初めての旅行先や飲食店が楽しみだ、など。
まだ知らない未来が良いものであるように願うこと、それが未来系「希望願望」だ。
当り前だけれど、過去系では思い出すだけで良く、特別の努力は要らず非常にお手軽だ。
それに対して、未来系では一定の努力が必要になる。
例えば旅行先や飲食店を事前に調べる、新しい生活のために勉強その他で準備する、など。
つまり未来系「希望願望」は決してお手軽にはならない。
その意味で過去系「希望願望」は敷居が低く、未来系「希望願望」はそれが高い。
前者はお手軽で、後者は苦労する。
前者は思い出すだけでよく、後者は努力が不可欠。
それも当然かもしれない、過去はすでに終わった世界、未来はこれから創る世界だから。
さらに一歩進めば、過去は死者の世界、未来は生き物の世界だ。
そう考えると、生き残るための「希望願望」は未来系で有益、ただ貪るだけの「希望願望」は過去系で無益または有害となる。
そうすると「希望願望」のうち許されるのは、生き残るための未来系、となる。
もちろん、ただ貪り耽るだけの過去系「希望願望」は断じて避けるべきだ。
この考察で「希望願望」に生存と耽溺の2系統あるのがわかった。
この先は明日以降。
希望願望の正体-心地よさとは何か8(20250218)
今朝の気温2度、でも通勤路の梅が咲き始めた。
紅白ともども、まだ1割程度の樹しか咲いていないが、この一週間で皆咲き始める。
麦も同じ、芽が出ると、あっという間に穂が伸びて色付き始める。
川も同じで、今は静まり返った水面も、気付くとさざめいている。
季節がのぼってくるのだ。
で、希望願望の扱いについて考えた。
希望願望・痴情劣情はヒトの本質なので亡くならない。
人間の証明である希望願望・痴情劣情の否定は人間の否定でもある。
なので希望願望・痴情劣情との距離感、付き合い方が大切になる。
希望願望・痴情劣情は根拠のない楽観主義の根幹で、非常に危険。
もともと「心地よさとは何か」は五ヶ瀬の山谷歩きから始めた。
危険を避け生きて還る目的で。
今は2月で危険な山谷歩きから遠ざかり、考える時間だけはある。
だからこそ「心地よさとは何か」をさらに考え進めておきたい。
この山谷歩きにおいて、希望願望・痴情劣情は命を危険に晒す。
だからアウトドアでは希望願望・痴情劣情を出来るだけ排除する必要がある。
なら日常生活ではどうか。
希望願望・痴情劣情との距離の問題だ。
希望願望・痴情劣情は人間の本質なので、これを否定した社会生活はあり得ない。
なので程度に違いこそあれ、希望願望・痴情劣情と向き会う必要がある。
なら、どう向き合う?
日常生活でもフルに働く勘に従えば、希望願望の叶う範囲が自ずとわかるし、立ち入れない世界もはっきり見える。
普通はそこで諦めるが、もし仮に駄々をこねたらどうなるか。
痴情劣情を抱えながら希望願望に全突入してしまう。
しかも結果、当初の見込みから大きく外れて着地するのがほとんどだ。
そしてさらに駄々をこね、また痴情劣情を抱えながら希望願望に全突入する。
その問題点は、希望願望の線引きだ、叶う叶わないの境界として。
希望願望の叶う確率は、行動を起こす前に勘で予測できる。
事前のシミュレーションを重ね選択結果を予想していく。
すると、どこまでが現実的で、どこからが無理筋かを予測できる。
この無理筋を直近の選択肢として採用するのは非常に危険だ。
まるで深い荒瀬に張り出した脆い岩盤に足を乗せるようなものだ、大マスを釣りたいがために。
まるでヒグマの新鮮な足跡と食糞を乗り越えて進むようなものだ、より沢山釣りたいがために。
それは確実に死を意味する。
なので、たとえどんな時(街中の日常など)でも、勘で予測したより良い未来を選ぶ必要がある。
その時の未来予想作業において、自分の希望願望を刻んで割り振るのだ。
この希望願望には温度差があり、どちらでもいい低温域と、どうしても欲しい高温域がある。
しかもその温度差は、実現可能なものほど低く、不可能に近いものほど高い。
つまり「希望願望」には温度差があり、つい高い方を選びたくなる、より強い快楽を期待して。
現状に不満があるほど、より強い快楽をより簡単に得ようとする。
その結果、無理筋の「希望願望」に全体重を乗せてしまう。
なぜそうなる?
満たされない想い、虚ろな充実感、そんな渇望を「希望願望」の実現で安近短に成就しようとするからだ。
その問題点は、渇望の成就を過去の「希望願望」へ向けること。
その瞬間、今この現実から遠く離れ、今でない過去へ耽溺していく、そのリスクは命に関わるというのに。
その一方で、同じ「希望願望」でも、よりよい未来の実現に役立つものがある。
それは「実現可能なささいな希望願望」だ。
その快楽はあまりに軽く小さく取るに足らないほどで、いわゆる「希望願望」の低温域に位置する。
しかし、あるなしの快楽でも「私の希望願望」であり、「私の人間の証明」そのもの。
しかも身近にありふれた「私の希望願望」で、成就に失敗しても生命に影響しない。
その「私の希望願望」の失敗が、私の人間性として、周囲の記憶に残ることはあっても。
たとえば仕事より家庭を選んだ結果、仕事に穴が空き公的信用に傷が付くなど(社会的には死なない)。
つまり「希望願望」には「時系列」がある。
過去に属する「希望願望」と未来に属する「希望願望」だ。
過去領域の「希望願望」は、今この瞬間の現実から乖離している。
それは過去にあるから当然なのだが、その分、もっとも強烈な抗し難い快楽を持ち、過去の記憶の中で燦然と輝く存在だ。
なぜなら過去という宝箱は、途方もなく広く深い入れ物で、中に本当に無数の無限の記憶を収めているから。
その過去という箱を乾き切った欲望で開錠すると、中から眩しい光線と共に魅惑に満ちた宝が現れる、過去の「希望願望」だ。
思わずその宝を手にした瞬間、強烈な快楽が垣間見えてしまう、まだ成就していないのに。
乾いて飢えた欲望はたちまちその快楽の虜になってしまう、「希望願望」堕ちした最悪の瞬間だ。
それが「希望願望」の過去領域の正体だ。
未来領域の「希望願望」は、今この瞬間の現実から連続している。
それは未来にあるから当然だが、その快楽は見失い忘れ去るほど小さく儚く、未来予想の中で目立たぬ存在。
なぜなら未来は、存在も成立も未だしない、その中には成功の快楽も失敗の恥辱も全て可能性しかない仮想空間だから。
その未来という仮想空間を、今この瞬間の勘で見渡すと、すぐ手元にかすかに光る「良きモノ」が目に留まる、未来への「希望願望」だ。
それを手にした瞬間、まざまざと些細だけれど確かな快楽を予感できる、まだ成就すらしていないのに。
執着するまでもないその快楽を、直近の時系列で選択する、それは私の人間性が発揮される瞬間だ。
「この洗濯物を畳むと奥が喜ぶ、奥を喜ばせたい」というあまりに直近で些細な「希望願望」。
でもこれこそ、未来領域の「希望願望」の正体だ。
まだ充分に書き出し尽くせない。
この課題は突き詰め考えていく。
人間の証しである「希望願望」のうち、有益なのが「未来領域」、有害なのが「過去領域」。
今は取り敢えずそれが結論。
余裕の正体-心地よさとは何か7(20250217)
「逆境を乗り越える人の共通点は「遊び心」だった!成功者の思考とは!?」
2025.02.12 23:00:56 WEDNESDAY
https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/170583
曰く
「今回の研究により、遊び心がある人ほど、「現実を冷静に受け止めつつ、前向きな未来を想像して適応できる」ことが明らかになりました。そのような人は、「現実を歪める楽観主義者」ではなく、「選択的に前向きな側面を強調する人」でした。だからこそ、逆境の中でもストレスを抱え込まずに努力を続け、一筋のチャンスを逃さずに成功できるのです。」byアメリカのオレゴン州立大学(Oregon State University)のシャオユー・シェン(Xiangyou Shen)氏ら研究チーム様
また曰く
「英語圏では「When life gives you lemons, make lemonade(人生でレモンをもらったら、レモネードを作ろう)」という言葉があります。
これは、「レモネードの原則」とも呼ばれます。
レモンが「人生の酸っぱさや困難」を示し、レモネードを作ることは、その困難を前向きで望ましいものに変えることを指しています。
つまり、予期せぬ困難に直面したときに、それを単なる障害とせず、新しい可能性や成長の機会へと転換する姿勢を持つことが重要だという教えです。
例えば、日本でも「災い転じて福となす」「ピンチをチャンスに変える」「逆境をバネにする」という言葉があり、歴史的に多くの成功者がこの考え方を体現してきました。
東日本大震災後、多くの地域が復興に向けて新しい産業を育てたり、地域の絆を強めたりしました。
こうした事例は、困難を成長の機会とする「レモネードの原則」の実践ともいえます。」byナゾロジー様
つまり「現実を歪める楽観主義」ではなく「選択的に前向きな側面の強調」が余裕を生むと。
例えば北海道の山中で食害ヒグマにバッタリ出会ってしまった。
ヒグマが立ち上がりその巨大な爪を振り下ろそうとする瞬間。
死を受け入れる、または徹底抗戦の2択しかない。
でも相手は食害ヒグマ、私を餌としか見ていない。
まず助からず、しかも私の死まであと0.5秒。
どうするか。
どうせ死ぬなら余裕をみせてやろうじゃないか。
0.5秒あれば十分、腰の短剣引き抜きヒグマの胸に飛び込み、頭でヒグマの下顎を押し上げながら、首元を上からメッタ刺しするのだ。
どうせ死ぬのだ、なら、最後の最後までこのヒグマに付き合ってやろうじゃないか、この食害野朗に!
喰らえ!喰らえ!オレを喰う前に、まずこの短剣を喰らいやがれ!
その時の気持ちこそ「現実を歪める楽観主義」ではなく「選択的に前向きな側面の強調」だ。
「現実を歪める楽観主義」は「もしかしたら見逃してくれるかも」というただの希望願望でしかない。
「選択的に前向きな側面の強調」はそれを完全否定し、万が一にも成功し得る現実的な行動を選択させる。
その心得こそ「余裕」の正体だ。
自然の「五感」を得て、今この瞬間の「意」たる私の「勘」が示す「未来」を目指し、次の瞬間「為すべきことを成す」
たとえ成功しても失敗しても。
もしやり直す時間があるなら、喜んでやり直せば良いし、もしそこで終わるならそれで良い。
何故なら私は私の終わりを知り得ないので。
その意味で、やり直せる失敗は失敗ではなく最挑戦だ。
もし死という私の終わりにあっても、私は気付かない。
つまり私はこの死を知り得ない以上「私は死なない」のだ。
だから「私」は死の恐怖より繰り返す挑戦を選んで征ける。
そんな気持ち・心得も、余裕の素(もと)かもしれない。
実例-心地よさとは何か6(20250216)
今日の昼間、仕事の合間にYoutubeで釣り動画を視聴した。
海辺の磯にテント泊して一日中釣りする動画。
「岩の上にテント張って、釣りしながら1日を過ごす。」byいっせい / 釣りとアウトドア様
https://www.youtube.com/watch?v=q4GDlK9Ha0w
ずっと見ていて羨ましくなった。
自然の中の時間が延々続く。
たまに魚が釣れもするが、多くはトラブルに終わり、それでも自然の時間が続いていく。
全てリアルな展開、自然の真実がそこにある。
この春、五ヶ瀬でどんな時間を過ごせるだろう。
もちろん、そんなことなど予想は簡単だ。
左岸に入って延々流していく。
すこし危ない立ち込みだから救命胴衣とステッキ、スパイクブーツも必須。
ネットはあった方が良いけれど釣れるとは限らないからなくても良い。
バックは簡単な雨具程度で飲料水や食料は入れず身軽に務める。
安全に気をつけただただ釣る。
そこに最近考えた「心地よさとは何か」を充てはめてみる。
これまでの経験と学習からベストな装備とシステムを準備する。
釣れる釣れないは希望願望に囚われないよう完全な不問とする。
これまでの過去に勘を重ね合わせ、五ヶ瀬の釣りを予想する。
するとその中で今私が整えておくべきことが見え始める。
完全な装備、抜かりないシステムだ。
そしてそこで得られる感動がわかる。
「心地よさ」だ、釣れても釣れなくても。
自然の中で延々続く「心地よさ」これ以外ない。
釣りに行かなくても「心地よさ」は変わらない。
いや、いつどこにいても「心地よい」のだから、特別釣りに出る必要はないのだ。
それなのに何故釣りに出る。
「五感」の歓びが半端なく豊かなのだ。
普段の日常生活で得られる「五感」は慣れてしまってタカが知れている。
しかし非日常の自然の中では、驚くほど多くの「五感」が私に流れ込む。
そして「私」を貫いた自然がその内側を満たし、「私」の外殻だけ残して自然そのものに戻してしまう。
デカルト「我想うゆえに我あり」の正反対「我想うしかし我なし」の状態になる。
それが自然の中で延々と続くのだ。
この感覚はアルピニスト故長谷川恒男氏も述べておられた(20220412)。
アルピニストとして山頂に立つのはアルパインの過程の一つにすぎない。
同じように釣りも魚を手にするのはその過程の一つにすぎないのだ。
その主な過程とは、自然の「五感」に満ちた「私」が自然と渾然一体化し続ける体験のことだ。
これを求め、五ヶ瀬に向かう。
五ヶ瀬に立つたび、なんだろうこの感覚は、と不思議に感じた。
でももう不思議に感じない。
ただ単に、未来を見つめて今この瞬間に生き、その命の「心地よさ」を感じ続けているだけだ。
当り前のこと、不思議なことなど何もない。
予想と妄想-心地よさとは何か5(20250216)
釣りに行く前にある程度の予想を立てる。
何時何分あの場ならあの鈎であの魚が掛かる、その場合糸と錘は何号を使い、取り込みにあのネットが要る、など。
もちろん予想通りに釣れるはずもないが、それ自体が楽しい。
妄想との決定的な違い。
それは「未来の選択」にある。
破滅的な失敗を避け、より確実な成功を納める工夫。
例えば、「皆釣れるのに自分はダメ」を避け「皆シブいなか自分は釣れる」ような工夫。
そのためのシミュレーションが予想の正体。
妄想はそもそも現実に即さないので「未来の選択」の役に立たないのだ。
逆に「役立たない想い」が「妄想」で、「役立つ想い」が「予想」となる。
もちろんその区分で全ては賄えないが、予想つまり現実的なシミュレーションは、今この瞬間から未来への道筋の選択に役立つのだ。
そのパーツは過去の記憶と勘の文脈、この2つから組み上げられる(記憶なければ予想できない)。
一方、妄想のパーツは過去の記憶と希望願望痴情劣情の2つで出来上がる。
共通項は過去の記憶のみで、勘を積極的に排除する点が予想と完全に違う。
「経験と学習の集大成」である「勘」(20230524、20241125)を否定することは、非常に危険だ。
例えば、北海道でヒグマのナワバリに立ち入り釣り続ける、マスの活性が上がる突然の増水で釣り続けるようなものだ。
その瞬間、現実に即さない想いつまり「妄想」に取り憑かれ、おそらく助からない。
現実に即した想いつまり「予想」ならヒグマと鉄砲水を回避し助かる可能性が高い。
つまり「予想」と「妄想」の違いは一点、その軸が「勘」か「希望願望痴情劣情」かだけなのだ。
「妄想」は「希望願望痴情劣情」に棹(さお)さすので過去にどんどん流される。
「予想」は「明日」に棹さすので未来へ進む。
「妄想」は過去に埋もれるので「五感」と「私」と「勘」すら亡くす。
「予想」は今この瞬間の「五感」「私」そして「勘」の指揮下に入る。
その結果「心地よさ」をより永く保てる。
「予想」とは「勘」の正しい使い道だ。
日曜朝(20250216)
昨日から今日夕まで仕事。
今日の天気は曇りのち晴れ、風強く肌寒い一日。
来週末から解禁で2025年の渓流が始まる。
五ヶ瀬のマスは去年貧果に終わり、今年もあまり望めそうにない。
このマイナスサイクルは大分川水系大野川水系で強く、最近は川辺川水系五ヶ瀬川水系に飛び火した。
鮎が少ないオイカワウグイが少ないという変化がマスまで奪ったのかもしれない。
とはいえ海は元気。
その海から登ってくるのはサケマスだけじゃない。
そんな海の幸を川で待つのも悪くない。