Nonsection Radical

撮影と本の空間

苛立ちに思いを馳せると

2015年01月23日 | Weblog
最近どうも苛(いら)立っているなぁと思っていたんだけど、分析してみると、どうやら思い当たるフシがあった。
阪神淡路大震災の20年であり、人質事件であり、その報道のあり方、人々の気持ちのあらわし方に「それだけなの?」って不満があるんだな。
不満というのは不足があるように思うのであって、どのような報道がされようと、人々の気持ちがどのようにあらわされようと、それ自体の事柄についてではない。
端的に言って「それだけなの?」っていう気持ちは、「これから」につながっていないと思う不足感からで、過去を振り返り、記憶を新たにし、次の世代につなげていこうという事柄と、「これから」の希望と予測と計画と有り様が語られないという”断絶”を感じるからだ。
どうも昨日といい、今日といい、わかりにくい表現ばかりしているのだけれど、これも多少保身的な振る舞いであるから仕方がないのであって、それぐらいわかって欲しい。
東日本大震災でもそうだけど、語られるのは過去肯定、現状肯定であり、”過去”の人の事ばかりが語られる。
”過去”の人とは、相対的なもので、つまりこれからの若者の事が語られなくて、若者の声も取り上げられないという事だ。
それが不足感の中味で、不満に思う事なのだ。
ハッキリ言って、「若者は年寄りの言う事、やる事に従え」というのが現在の状況に思えてならないのだ。
たとえば、神戸での報道でも、被災して現在でも生活が上手くいかなくなった人達の声は取り上げられている。
特に当時壮年以上の年齢であった人達の現在の暮らしぶりや、人が戻ってこない商店街の状況など報道されるのだが、現在の若者の声というのを取り上げない。
被災地で”今後も”暮らしていく事への気持ち、自分たちはどうしたいのか、どのような事をしているのか、そういう声は届けられているのだろうか。
自分も含めて年寄りは、それこそ「自己責任」でなんとかしていかなければならないのだ。
若い世代に迷惑をかけて生きていくわけにもいくまい。
後ろに下がって、今後の人達が歩きやすいようにするべきだと思う。
しかし報道では「昔の栄光」を取り戻したいという”過去”の人の思いばかりが取り上げられ、「未来の栄光」を目指したい若者の思いが取り上げられない。
むしろ、過去の遺物と言えるような縛りで若者を年寄りの後がまにしようとする動きにさえ思える。
商店街に店が入らない。街に人が戻ってこない、というが、街が人が年寄り世代の価値観そのままで存在していて、その中に入るには「郷に従え」が当然である雰囲気の中で、若者に何が出来るのだ?
そんな中で従って生きるのは「介護」でしかないじゃないか。
若者が持つ価値観、思考、取り組み方、それを活かせる場所に”復興”した、あるいはこれから”復興”する街はなり得るのだろうか。
異なる価値観、異なる人を受け入れる気持ちがあるのか?
単なる過去の価値観、現状維持の気持ち、新たな事への拒否反応、そういうものに立ち向かっていかないと、新しい事が始められないというのなら、若者がかわいそうとしか言えない。
そういう立場にある若者の考え、気持ち、声を”セット”で取り上げる事が不幸な出来事から未来へ向かうという事につながるのではないかと思うので、苛立っていたんだ。




南海電鉄 鳥取ノ荘駅前
大阪府阪南市鳥取
撮影 2014年7月12日 土曜日 16時20分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする