Nonsection Radical

撮影と本の空間

ナショナリズムと牛丼

2013年08月19日 | Weblog
神社に行って(参拝ではない)驚いたのは、若い衆がやたら「様式」にこだわり「参拝の仕方はこうなんだよねぇ」などと口に出しながら参拝していた事だ。
まあそんな人でも、そこがどんな神社で誰を祀ってあるかとかには無関心なのであるが、そういういびつなプチナショナリズムとでもいうべき「クーキ」が世間に漂ってきている気がしないでもない。
まあそれはそれでイイんだけど、問題は「いびつ」な部分がある事で。
例えば、エスカレーターの片側をどんなに混雑していても空けて、長い行列を作ってでも「マナー(思いやり?)」を遵守しようとするくせに、階段では広がって我先に歩き、時には(しょっちゅう)逆方向の矢印を無視して上り下りする「いびつさ」もあげられる。
本来、「様式」にこだわるのなら、すべての生活様式において「美しき日本人のありかた」を体現しなければ真のナショナリストとは言えないのだが、自らがいびつな思考である事に気がつかないのか、限定的な事ばかり気にして、取り入れ、強制し、「美しき日本人のありかた」がこんなもんかいなぁと思ってしまう事態となっているわけだ。

と、ここまでが前振りで、
牛丼屋へ入って大盛りを食べていると、先に食べ終わった女性が爽やかな声で「ごちそうさま~」と席を立った。
もちろん店員のおねえさんは「ありがとうございました~」と受けるわけだが、そのやりとりをドンブリを見つめながら黙々と食べていた野郎ども(男しかいなかった)は、急に顔をあげて見つめていたわけだ。
satoboは「これはあとに続かなければならない」と考え、食べ終わるとよく聞こえる声で「ごちそうさま~」と席を立った。
もちろん店員のおねえさんは「ありがとうございました~」と受けるわけだが、そのやりとりをドンブリを見つめながら黙々と食べていた野郎ども(男しかいなかった)は、急に顔をあげて見つめていたわけだ。
こういうやり取りが「美しき日本人のありかた」だろうよ。
コンビニでもスーパーでも「ありがとう」というのが「美しき日本人のありかた」だろうよ。
はたしてそのあと席を立った人は「ごちそうさま」が言えただろうか?

日々の暮らしの中でナショナリズムをあらわしてこそ日本人の美徳は培われていくのだろうよ。
コメント
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