3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

母を看取る時 5: She is dying.

2013-07-02 09:32:33 | 日記
7.1の明け方から高熱が出て、意識が朦朧としたらしい。
兄から朝連絡がはいる。急いで駆け付けた。
7.1が命日になるのかと思いながら、車中考えていた。
しかし、母の生命力はすばらしく、点滴、水枕と氷嚢のおかげで、熱は次第に下がり、小康状態。意識もある。コミュニケーションもとれる。
昼食の時間になると、朝食は熱にうなされていて取れなかったのだが、おなかがすいたらしく、ほぼ完食した。
なあーんだ。大丈夫じゃない、とほっと胸をなでおろし、仕事に戻る。

とはいえ、声もか細く、やっと声を絞り出すようにして話す。痛々しい。
尾てい骨にも腫瘍は広がり、左股関節が痛むらしい。しかし、幸いなことにそれほどの痛みではないらしい。

食事介助をして足をマッサージして、手を握り、また来るからね、というと、眉間にしわを寄せ、悲しそうな顔。
後ろ髪をひかれながら病院を後にした。

6月13日に入院した時は、まだ、自分で食事をすることができたし、声も大きく元気だったが、この2週間で急激に衰弱し、あっという間に流動食となってしまった。歩くこともできない。完全寝たきりである。

ベッドサイドに母の靴が置いてあった。茶色いフェルトの靴。もうこれを履くことはないのだろうと思うと目頭が熱くなる。

* * * * * * * * * * * * * * * *

6月3日だったと思うが、久しぶりにデイサービスに行った。ずっと寒くて億劫で行きたくなかったようである。腫瘍は体全体にひろがっているために倦怠感がひどく、外出する気がおきなかったからなのだろう。

季節もよくなり、いかがですかというデイサービスからのお誘いを受け、やっとの思いで行った。母はこの2年間、デイサービスをとても楽しみにして通っていたので、とにかく、一度は行って、職員の方々や仲間と最後の別れをする必要があると思っていたので、本当に良かったと思っている。
職員の方々もそういうことをわかっていて、声をかけてくださったのだと思う。久しぶりに行ったところ、大歓迎され、胴上げをされたととてもうれしそうに話していた。

人生の最後になって初めて参加し利用したデイサービスであるが、そこで出会った職員のみなさんや利用者仲間は、大切なことを教えてくれたように思う。

血のつながった家族や兄弟でもなく、旧友でもなければ職場の仲間でもない。デイサービスのつながりで出会った人々である。最後の最後になっても新しい出会い、すばらしい出会いと支えがあることを教えてもらったように思うのである。

金儲けや詐欺が横行する世知辛い日本だけれど、そうじゃない暖かなつながりもあることを我々に教えてくれたと思う。

末期がんで限りある命であることを皆職員たちは知っていたが、とにかく、この年寄りの最後を楽しく過ごさせてやりたいというのがケアプランのゴールだったのだろうと思う。本人は若い男性職員との楽しいおしゃべりに、病気のことも、先が短いこともしばし忘れて楽しく過ごすことができた。母は若い人が大好きだし、新しいものにもどんどん挑戦する前向きな性格なので、デイサービスでやるさまざまなプログラムには熱心に取り組んでいたことを思い出す。

本当に感謝の気持ちでいっぱいである。

介護の仕事は離職率が高い。暖かい仕事なのだから、安定した賃金と休暇、研修の機会を保障すれば、必ず人は集まるはずである。
やめてしまうのは、やりがいをもてないからである。安定した専門的な労働として社会的認知度を上げ、社会がバックアップしなければならない。
世話になった家族として、介護職員の労働条件を向上させるために応援したいと思う。





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