3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

なぜ少子化になるのか:高度産業化社会の宿命

2015-10-16 09:37:30 | 現代社会論
少子化になると年金制度がもたないし、生産人口が減少してしまい、国としての存立が危ぶまれる。
今まで子育てに専念していた人や高齢者も動員して労働人口を増やそうとしている。
子育て中の女性もぜひ働いてくださいということである。

で、子育て支援をやろうとやっとそういう機運。だが、ことはそう簡単ではない。

第一、産業化した社会は、子どもが視界からいなくても成立する。生産効率を考えれば成熟した労働者がいればそれでいいので、再生産のところはとりあえず視野にはいれない。
働く場にも子どもの姿はない。産業化社会では子どもは二の次なのである。大人になった労働者を雇用するわけだから、その途上の人は特に関心がない。

農業社会は働き手が一人でも多くいたほうがよいので、たくさん子どもをつくり農作業の手伝いをするわけなので、子どもは小さくてもそれなりの労働力だったから、期待値が高かったのである。

第二に、多様な価値体系がひろまるなかで、女性は子どもに専念するような人生選択をしなくなったのである。ノーベル賞級の研究をするためにカミオカンデにいくのに子どもは無理である。せいぜい一人が関の山。男性の仕事における達成感を女性も味わってしまうと出産、子育てという選択肢は消える。できる女性たちというのは、自分の仕事を助けてくれるよいパートナーがほしいのである。成果主義を貫けば、女も男も競争社会、出産育児でお休みしまーす、なんていっていると自分の机がなくなる、と思ったら、子どもは産まないということになる。
仕方がない。
高学歴の有能な女性ほど、晩産化、少子化となる。

反対に低所得なのに無計画でできちゃった婚となるとそれはそれで問題なのである。人ひとり成人まで育てるのには相当な覚悟自覚経済的安定性が必要になっているから。子育て支援に相当な公費が必要となる。

第三に、出産子育てというのは、自然の中の動物としての人間の営みとしては当たり前のことである。だが、自然のなかの動物としての人間という意識がなくなっている今、自然に密着した行為であるところの出産子育てはない。

自然に親しみ動物的な本能を取り戻せばなんとかなるかもしれないが、東京のコンクリートジャングルのなか、人工的な公園、人工的なモール街では、無理なのである。コンビニ感覚では出産はできても子育てはできない。

ということで子育て支援にいくらお金を注いでも、注がないよりは注いだほうがいいのだが、基本的に子ども数は減少していくというのが高度産業社会の宿命なのである。

東京のあちこちに自然を取り戻し、労働時間をドラスティックに減らす、普通の人が自然に親しんで、動物的本能を目覚めさせることができればよいのだが、それには相当時間がかかる。高層マンションで空調の部屋で24時間暮らすなんてことしていたら、まるで自然の風にふかれることはないし、土に親しむことはないのだから、無理というものなのである。
夜中でも煌々と明かりがともるコンビニ文化は便利だが、自然の中の人間としては、その感性をマヒさせるもの以外のなにものでもないのである。





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