新潟カウンセリング研修センター

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「摂取不捨」に救われて在る事実

2013-12-31 08:25:54 | 私の声
 「私は本当に憎かったんだ」と、人は想うとき、自身は「想っちゃいけない」と想ったり、「想わないようにするのには、どうしたらよいか」と。そのありようは、他人に対して当然のこと反映するようになっている。共々に救われ合う道は、現になっている・在る「我」に値遇えるかに、かけられているのだ。一人では独りにならせていただけない。関係でありましょうか。
 「いかになすかということは、いかに在るかということである。(人間関係論より)」救われし道は、どなたにもどなたにも、すでに用意されているのだから。精進させていただけよ!と、頻りに呼びかけられているこの心身。

幸せ三昧

2013-12-30 07:48:55 | 私の声
 幸せはことばとともに在り。ことばに値遇(であ)わせていただくは幸せなり。ことばにして、ことばになりて、ことばにならせていただけてきたことばであった。生活はことば・ことばは私。幸せは探すものではない。すでにやってきているのだ。
 「人身(にんじん)受け難(がた)し、いますでに受(う)く。(三帰依文より)」と。先人のことばに、唯うなずかせていただけているこの身である。

「見守る」では「見守りになれない」

2013-12-29 07:39:53 | 私の声
 人間(ひと)が「見守る」ということばで、表明しているところには、その人間の「我」が満ちている。「見守ってきたんだけど」と、いずれ言うことになったり、「見守っていたつもりでした」とも言ったりもする。そして、ことばは凶器になり、共に心身の殺し合いになるのである。「見守る」とは、そのようになる運びになるようになっていたのだから。その空虚さに学べばよいではないか。
 「自分の都合・評価・力み・方向などが、自身にはっきり認識できて迷いながら、より真なるものに値遇わせていただこうとする前向きな姿勢・問うことができている人間」を、見守り・見守りになっている人間、と今は言える。特に教育や育児に携わっている方に、問われているところであり、問われなければならない。殺しているつもりがないようだが、殺されている人間がいるのだから。

「力(りょく)」と「力(りき)」

2013-12-28 07:32:34 | 私の声
 過日の紙面に語られていた、五木寛之さんの「無力」観に目が止まった。これまで、「『力』についての考察を深めてきたが『力というものは、いくら求めても終わりがない。』」と。今、全国の各紙に掲載中の、創作「しんらん 親鸞」を通じて、その生涯を探求する親鸞もまた「無力(むりき)の思想を徹した人だった」と。そして、無力(むりき)は「虚無的で後ろ向きな『無力(むりょく)』とは違い『無力(むりょく)であることを認識して、揺れ続ける動的な生き方を肯定する前向きな姿勢』」なのだと。
 「生活が最良の状態にあるときは、流動的で変動し続けるプロセスであり、固定したものは何も存在しない。(ロジャーズ・私を語る)」と。
 両者のことばに聞かせていただき、我が身のありようを想わせていただいている。「力(りょく)は力(りき)に抱かれ・力(りき)に呼ばれている力(りょく)」は、今・私に聞こえてきた「力」観である。
 

ことばに教わった ことば力(りき)

2013-12-27 08:04:46 | 私の声
 「ことばでは言えない」「ことばで言い表せない」「ことばより気持ちだ」「ことばが無い」「そのことばの意味していることは」「何を言っているか解らない」等など、よく聞くことばだ。この類のことばには、宝が秘められているのだ。宝とは、言ってみれば、ことばのいのちだ。ことばのいのちに値遇(であ)わせていただけたら、そのことばは最高の輝きを放つであろう。最高の輝きが放てるのは、そのことばを発したその人間(ひと)に聞こえてくるかどうかに、かけられている。聞こえてこない訳がある。ことばを信頼していないからに他ならない。ことばを信頼していないという自覚もないままに。それでは、ことばを信頼すればいいのか。否、ことばに信頼される人間・ことばを信頼できる人間になって、はじめて値遇わせていただけるようになっている。