「私は本当に憎かったんだ」と、人は想うとき、自身は「想っちゃいけない」と想ったり、「想わないようにするのには、どうしたらよいか」と。そのありようは、他人に対して当然のこと反映するようになっている。共々に救われ合う道は、現になっている・在る「我」に値遇えるかに、かけられているのだ。一人では独りにならせていただけない。関係でありましょうか。
「いかになすかということは、いかに在るかということである。(人間関係論より)」救われし道は、どなたにもどなたにも、すでに用意されているのだから。精進させていただけよ!と、頻りに呼びかけられているこの心身。
「いかになすかということは、いかに在るかということである。(人間関係論より)」救われし道は、どなたにもどなたにも、すでに用意されているのだから。精進させていただけよ!と、頻りに呼びかけられているこの心身。