新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

イロハモミジと私

2014-11-25 11:30:07 | 私の声
 カウンセリング研修会から帰宅してみたら、庭のイロハモミジの彩が移ろっていた。いつか京都での研修会の折りに愛でた、イロハモミジが忘れられず植木屋さんに依頼して叶えられた。春先、芽吹きとともに、秋の鮮やかなイロハモミジになるときが待たれていたのだ。桜の葉の紅葉は、もうとっくに終わり落葉してしまった今、唯一しばらくは庭の秋を楽しめそうだ。この地の冬の寒さに・雨に・風に・気温に・陽の光等などに聞いて、このイロハモミジはこのイロハモミジとして、あゆみ続けられているのだろう。とにもかくにも、私がいてこそのこのイロハモミジ。昨日まで場を共にさせていただいたお独りお独りに、聞いていただき聞かせていただき、それぞれがそれぞれにいただきあえる分ち合いの関係は、イロハモミジにも同じく言えそうである。このイロハモミジもこの私も、一人ではイロハモミジにも私にもならせていただけない、と想わせていただいている今朝の「私」。

声にする

2014-11-18 08:32:35 | 私の声
 日常声になり合っている声だが、実は測り知れない意義が秘められているのだ。この意義の測り知れなさに学ばせていただけたのは、「カウンセリング」にであえたお陰であった。言い合いに終始している関係のところでは、勝ち負け・損得・虚しさ・イライラ・不安定・鬱積・けが・黙り合い・殺し合いの様相にならざるを得ない。私とあなた・国と国の関係も然り。そのような関係に満ち満ちているように私には見えて、危機に感じている。カウンセリングに学び身をもって体得でき、育みあいになる関わりの手だてがみえてきたのである。声にするところから、独りが救われ、世界中の平和に通じていく道が開かれていけるのであるが・・・・・・・学びのプロセスに歩ませていただいている身である。これまでも・今も・これからも、終わりを知らない・終われない・終わりはない。声にするところが手掛かりになってきた・・・

私と掃除

2014-11-09 09:37:24 | 私の声
 私と掃除との関係は、顕かに変わった。これまで生活のなかで、なにかと掃除が後回しになっていた傾向にあった。どうも掃除は、苦手なのかとか嫌いなのかとかと、思ってみたりしながら時が経過してきていた。転居に伴い、住まいの床の色をどの色にしたいかと尋ねられ、「濃い色は汚れが目立つから」と、とっさに口にしていた。このことばにこそ、私と掃除の関係がすでに表されていたのであった。壁の色とのバランスからだったか、濃い色の床に落ち着いた。今では小さなゴミにはさっと手がのび、掃除は楽しめているかのようにやれているではないか。吾ながら驚いている。それまでは掃除を細目にせずともおれたということでしょう。そこで私に届いてきたことばは、「呼応」。色に呼応させていただいている私。掃除をしなければならないとするところでは、たいそうなことであろうことが、おのずとさせていただけている掃除だ。呼応人間(こおうびと)だったのです。「人生は最良の状態では、流動的で変化しつづけるプロセスであり、静止しているものはひとつもない。」(ロジャーズ・私を語るより)に、味わわせていただいている。

「誤解」 は本来ないのであるが・・・

2014-11-04 11:22:27 | 私の声
 人間と人間との関わりにおいて、「誤解された」とか「誤解している」とかということばを、よく耳にする。大抵はこちらに都合が悪いと思ったときに、相手に向けられて言っているように思う。つまり、自分の言ったことが正しくて、あなたの言っているのは違いますと。このところでは、言い合いにならざるを得ないのである。いわゆる、ケンカになり、憎みあいになり、殺し合いになり、戦争になっていく関係のありように他ならないのだ。おおかた、日常会話はこのようになされている。悩みにもならず、なんとかしたいと自分の課題にもならないままに。国会でも然り、国と国との外交も然り。したがって平和・平和と叫んでみても、絵に描いたもちにすぎず、真の平和になるわけがない。誤解しあっている関係、いや本来ない誤解を、あたかもあると思い込んでいる関係には、永遠に平和は訪れまい。真の学習が著しく欠落しているのだから。真の学習に迎えられる人は、自分の悩みに・自分の課題になれる人だといいたい。ちゃんと、人間にならせていただけていける道は、見えてくるのだから。