ご縁を得て人間(ひと)に関わらせていただいている。人間の変化・成長に関心があって学びが始まり、現在に至っている。よく学びが今日まで続いたものだと思う。それは、ひとえに師との出会いにあった。学びにつれて、もう分かった!分からない!でもなく、“分からなさ”に値遇(であ)わせていただいたお陰だ。分からなさは、学ぶ程にますますはっきりと、この身にいただけてきた。学んでいないときには、学びの必要が分からなかった。多くの人々がカウンセリングに学ぶことにならないのも、うなずける。
ところで、「どこまでも学び続けられている人間を、カウンセラーと名付けられる」ところは、二度と同じ場面がない・同じ人間はいないゆえに。従って言うまでもなく、おのずと学び続ける必要が生じている。巷ではマニュアルを身に着けてカウンセラーと言っているが、全くふさわしくない。かけがえのない生身のその人間に、関わらせていただき寄り添わせていただくとき、失礼千万だ。マニュアルに頼っている人には、目の前のその人に「かけがえのない独り」が感じられていない証である。マニュアルには、血液も尊厳もない。
カウンセリングと言う言葉は同じが、奥行きと広さは異なる。一般の人には、選びようがないところですね。
ところで、「どこまでも学び続けられている人間を、カウンセラーと名付けられる」ところは、二度と同じ場面がない・同じ人間はいないゆえに。従って言うまでもなく、おのずと学び続ける必要が生じている。巷ではマニュアルを身に着けてカウンセラーと言っているが、全くふさわしくない。かけがえのない生身のその人間に、関わらせていただき寄り添わせていただくとき、失礼千万だ。マニュアルに頼っている人には、目の前のその人に「かけがえのない独り」が感じられていない証である。マニュアルには、血液も尊厳もない。
カウンセリングと言う言葉は同じが、奥行きと広さは異なる。一般の人には、選びようがないところですね。