いつしか、この身は物事に対して分けたがり、分けてしまっていたようだ。ホントかウソか・良いか悪いか・損か得か・高い低い・できるできない・短い長い・重い軽い・明るい暗い・好き嫌い・信じる信じない等などのところで呼吸していた。固定し実態としてとらえる目になり、耳になっていたのであった。人間(ひと)との関係において、草花や食べ物など全てにおいて。その渦中は無意識のまんま、無意識に支配されていたのだったんだなあと、今言えている。あるとき、分けたがり分けてしまっていたこの目に耳に、満たされなさ・不自由さが訪れ、熟されたに違いなかった。思い立ちに揺り動かされて、いよいよ学ばずにおれなくならせていただけたのだった。以来、よき人間(ひと)に・よきことばに値遇(であ)えて、私が考え思う狭く限られた世界を超え、限りなき世界にはこばれてゆけた。固定は固定として・不自由は不自由として、その人間(ひと)のことばはその人間(ひと)のことばとして聞こえきて、聞かせていただける歓びになっている。カウンセリング(仏法)に学ばせていただき続けられて在る身である。ちかじか北海道の地で・・・
楽しい・嬉しいを期待して生活している向きがある。しかし、実際は苦しい・悲しい・憎いになっている。こんなはずじゃなかった・どうすれば・・・と。だが、そこまででおおかた、うやむやのままに。苦しい・悲しい・憎いが、大事にならないまま闇に葬られてしまわれる。したがって、どこまでいっても道が開かれいかないのである。どなたにもどなたにも、すばらしい人間(ひと)の道が、すでに用意されているのであるが。苦しい・悲しい・憎いは、大事になりたがっているのである。せっかく、この身をめがけてやってきてくれているのだから。実にもったいない!!。それでは、より望ましく豊かな充実した生活になる〝手〟は、声にしてみましよう。聞いていただける人間(カウンセラー)のところで。9月23日(火)午前9時より、新潟カウンセリング研修センターで。前日までに 025-230-5320(TEL/FAX)へ申し込む。プライバシーは厳守されます。一人で考えるのはやめましょう。まず動きだすことです。
このところ頻りに私を訪ねくることばに、「信」がある。「信」とは、人偏と言の相(すがた)に表されている。「人間のことばではない。その人間(ひと)のことばだ」と。師に聞かせていただいている。次第次第に、この身に細胞の一つ一つに深く深くしみいってきているのが感じられている。人間と観るのとその人間(ひと)と見えるのとでは、全く見えてくる世界、即ち味わいが異なるのである。その人間(ひと)ということばに、この身の血液が通いだし、この身に止まらずにもう一人の独りの人間(ひと)とも血液が通い合えるのだ。もう一人の人間が、独りのその人間(ひと)になり、かけがえのなさにならせていただけるのである。ともどもに。その人間(ひと)に「A」と聞いても、私の「A」とは異なるを知ってしまえている。したがって、「私も」とか「同じ」とか「同感」といったような聞きようにはならずに済むのである。その人間(ひと)とこの身が仕分けられるから、私にとってもその人間(ひと)にとっても、失礼にならず在り難い。かけがえのなさの証といえる。そして、昨日聞いた「A」と今聞く「A]と違うことも。「また同じこと言って」とか「昨日聞いた」などということばも、おのずから言えない身になったのだ。いよいよ聞かせていただく他に道はなし・・・・・・・
なんとなくこの心身の調べに、落ち着きのなさが感じられたならば、救われたがっていると思えばいい。大抵は見過ごして終えているが、それはよくよく想うに、宝のもちぐされとしかいいようがない。宝のもちぐされにより、真の幸せに値遇(であ)えずじまいになることを、知ってしまったこの身は、落ち着きのなさに敏感にならせていただけている。敏感になった方がいいとか敏感にならなければ、ではなしに。まず、声にしてみるのである。吾声になったことばが、信じられなくなっていたこと、に気づかされるのである。声になったことばが信じられずに、他に外に答えを求めているはずである。外に答えを求めているとしたならば、どこまでもどこまでもどこまでも迷い続ける他はない。吾声になったことば・その方のことばが分けられて、そのことばにお任せできてきていけるこの身に実感させてもらえてきている今である。少しずつ少しずつに。自力ではかなわないことも、知らしめられたのである。学びのおかげである。聞いてくださる人間(ひと)にご縁をいただき、ことばに聞かせていただける身に・・・・・・・。