新潟カウンセリング研修センター

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「私は違う」というとき

2014-06-25 07:31:42 | 私の声
 私はあなたと違うんですよね、などといったような言い分を聞くことがよくある。私とあなたは違うは、当然なるがゆえに聞き逃せない、いや大事なところである。違う、となったところの指さすところが、おそらく言っている人間にとっては不明なのであろう。当然のところの「違う」ということばに聞かせていただけてこそ、「違う」と声になる意義があるのだから。言えた・聞えた人間の「教え」にならせていただけるのだ。おのずから。違う・同じ、ということばが到来したとき、話を聞いている証といえそうだ。真に聞いてほしがっているいのちは、満たされないこと頻りだ。違う、が大前提になっている人間に、思議なく聞いていただけたとき、私は私としてのかけがえのなさに値遇(であ)わせていただけた。「如是我聞」とね、聞いていただき、聞かせていただけて、救われてきたこの身である。言い合っている世界(関係)では、救われ合いにくい。

質問

2014-06-21 07:20:30 | 私の声
 ある表明を読んだ方が、質問があるというのだ。聞かせていただくと、質問したくなるような読みようをしていたのだと。最初から最後までが読めていないのだ。表明のなかの一部のことばだけを抜き出して、その方の思いがあってのいいたいところを伝えてきた。質問したいとして。 日常はこのようなところで質問する、といっているように想えている。゛質問をする”では〝質問にならない”ことは、はっきりしている。質問をする、ということばは、質問にならせていただけよと、頻りに呼びかけてくれているのである。質問にならせていただけてこそ、この身になるのだ。「問いに質す」のことばに教わる。問いに質されて、救われてきた吾である。よ~く聞かせていただけたときは、質問することにはならずにすめていた。味わわせていただけている。

考えるな!!!

2014-06-16 08:26:48 | 私の声
 「考えるな」は、恩師によく聞かせていただいたことばである。考えようとするもしないもない。自力に先立って考えてしまえるのだ。日常的なところでは、❝よく考えて”ということばに代表され、考えることはよいことのように、いつしか身についているのだから、当然ともいえるのだが。したがって、他者の語りが他者の語りとして聞かせていただけなくなるのだ。考えていることが無自覚のまま、無自覚に支配され勝手に分かってしまい、勝手に言い分が語った方に向けられていくことに。そこでは語った相手がいなくなってしまうばかりか、殺されてしまうのだ。いいえ、誰よりも勝手に分かってしまって言っている自分自身が救われていないはずだが、救われていない自分にも気づけないでいるのだからなかなかのところだ。自分だけ善しの関係は成り立たないのだと、つくづく実感させていただけている。言い分が届いてきたら、唯聞かせていただけていない証と心得ている。考えるのではない。考えさせていただくのである。考えている自分に気づかせていただけるようになるためには、唯・聞かせていただく他に手はない。「ことばの相(すがた)に唯聞かせていただくだけ」のことばに、この身は正されてきた。これからもきっと・・・・・・・。

〝善く生きることが大切だ”

2014-06-05 12:39:43 | 私の声
「私の声」にさせていただくのは久しぶりになる。紙面を開くと、「文化の記憶」の欄に目が止まった。哲学者・田中美知太郎氏のことばとして、「ただ生きるのではなく、善く生きることが大切だ」と。私ごととして、うなずけるところのようだ。長きにわたり、善き師に値遇(であ)いカウンセリングに学べて、善く生かさせていただいている身ゆえに。
 そこで、金子大栄氏のことばが思い出された。「法(ことば)を聞くといふことによってはじめて、人間は人間を超へてゆくことができるのである。ありのままの人生といふものに意味をみいだすことが、聞法といふことによってできるのであります。けれども人間はその第二次的なものに進む足は緩く、基礎生活の方は、本能的に引かれてゆく力が強いのであります。」と。(ことば)は私のことば。
 〝善く生きる”には、己に在る〝障り”に気付くしかないようだ。自分に生まれ、真に歓べるためには・・・・・・・。