学びは、常に“言ってみた(体験)”後に訪れる。吾の声にした後に、いただけるものだ。他者が言っているのを、傍らで聞いていて、では私のものにはならない。他人事になっている。声にして、この身がこの身に顕わになる必要があるようだ。これまでの吾道程から言える。声は、どなたにも生まれながらにして具わっている。しかしながら、声の用(はたら)きが大事になるような人との関わりに恵まれてきていない。親であり、学校の教師であり、最も関わり合いの密な関係において教わってはいない。いつの間にか声にしない方向に向かっている。自分で自分の“今・ここ”が闇のなかのままで生活しているから、気分は重く精神は患っている。危険だ。自殺・他殺・薬物へと。健康的な育まれ合いを願って、カウンセリングにお誘いしている。一人で考えていては道は開かれないのである。まず足を運んでみることだ。
“私が声にすると私のためになる”この事実に出会えて、私のことばが声になりやすくなってきた。私の人生を豊かに、活き活きさせてくれてきた。他者との関わりに課題をいただき、より私が育てられゆく感覚。一朝一夕になれるものではなかった。振り返ってみれば、数えきれない方々にお世話になり、お手伝いをいただいて歩ませていただいてこられて言える。怖かったり・もやもやしたままだったり、言って悔いたり、けがしたり・・・そして、ことばを信じられなくなって、自分にこもってしまい暗闇の世界へ。もったいないではないか。まず、足を運んでみよう。ともどもに育まれ分かち合えるカウンセリング研修会にお誘いしたい。 家庭(子育て・夫婦関係・介護)や学校や職場での人間関係など誰にも言えない迷いや悩みからくるストレスや将来に対する不安を抱えている方、カウンセラーへの資格を目指したい方、どなたも参加できます。詳細はお問合せください。受付けが始まっています。
感動・感動に明け暮れている庭の春だ。若葉が春の陽に眩い。その一方では、散り急ぐようにして、朝は緑色していた葉が昼には黄色になり、夕には茶に変わって落葉になる。昨秋小鳥が種まきした、ひなげしの花びらが春の風に遊び、夕には地面に咲いている。地面がひび割れた所に、鬼灯が茗荷たけがチョコンと頭をのぞかせている。この時期地面を踏む足がドキドキだ。特に春と名付けられているこの季節には、ものの移ろいを見させてもらえる。移ろい続けられている感覚は、鈍感になっているわが身に気付かせてもらえている庭の春。片時も固定していない事実が見失われるとき、ひとは不自然になるときだ。空虚になり・苦悩になり・患う。ことばは呼吸。呼吸・ことばは片時も滞っちゃいない。都度都度、完結しつつ私させていただき続けられている。固定・捉われに気付かせていただける歓びに優るものはない。カウンセリングに出会えたお陰だ。