新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

防衛は攻撃に

2022-03-30 13:21:45 | 私の声
国と国のできごとのように、傍観者になっていやしないだろうか。
連日、侵攻・虐殺・戦争の映像を通して見ている自分に、どのように見えているのか。
あなた自身に「防衛」が在るのを、ご存知だろうか。
あなたともう一人のひととの関わりに、すでに防衛が用(はたら)いている。
気がついていようがいまいが。
カウンセリングに学ぶにつれて、防衛から開放され、ともどもに救われ合える体験になる。
防衛が強いほどに、他者との関係は難行になるばかりか、危険である。攻撃、殺し合いに。
集って自身の声にして、関係に自分自身の防衛が諦(あから)められ、世界が平和になって往ける確かな学びだ。
年間を通して当センターでの学びは、全世界の平和に通じている。
カウンセリング学習こそ、究極の学びと言える。

「どうしたら・・・」

2022-03-23 10:51:25 | 私の声
 最近、「どうしたら・・・させられるか」が、よく聞かれることばだ。
「どうしたら」と言っているそのとき、視線は外に方法を探しているようだ。
直接相手を武力で屈服させる方法か、困っている立場を助ける方法などになって、往き詰まっている。
そのあたりで、その都度曖昧に済ませてきて、繰り返しになってきているんでしょうか、そしてこれからも、繰り返されるんでしょうね。

 ゆえに、日頃から「学び」が必要なんです。人間にならせていただける学びが。
学びとは、知識や観念や理屈を知ることではない。
生身のその人間(ひと)に関わり、分かち合える体験学習を。
どちらか一方だけ利益(りやく)がある関係はない。
自分が良いと思っているのであろうが、錯覚であり鈍感になっているのだ。
その相手は、絶対に自分の想うようにならないからこそ、学ばせていただく他はないのだ。
ともどもに、救われ合い・和にならせていただける体験学習だ。
自分の身に体得させていただけた人間(ひと)に、「どうしたら」は要らない。
その手立ては、獲得されているのだ。
人間にならせていただける学び、大事に!













スリーアギトス

2022-03-13 08:57:16 | 私の声
 パラリンピックは今日が閉幕になる。「スリーアギトス」は、パラリンピックのシンボルマークとされている。ラテン語で「私は動く」の意味とのこと。描かれている三本の線には、それぞれに動きが見える。
 とかく困難に直面したとき、内にこもる傾向になりがちだ。黙る・他者との関わりを避ける等などに。
「私は動く」である。私が動かずして歩ませていただく手はない。私に変わられる人はいない。仏陀が誕生して間もなく「天上天下唯我独尊」と叫んだと伝えられている。変わってもらえないのである。変わってもらえないようになっているのだ。カウンセリングに学んでいる人には、うなずけるところである。
身体に障害があるとされる方々が、パラリンピックの場で見せてくださっている。障害の有無にかかわらず「私は動く」である。
 昨日も今日も、当センターでは自分の声「私が動く」にして「育まれ合い」がなされている。
「謙虚」「感謝」の分かち合いになった。
「明日からの仕事の励みになった」「課題がやってきた」などのことばを遺して帰宅された。

「和とは不和の悲しみなり」

2022-03-04 14:29:15 | 私の声
「和とは不和の悲しみなり」のことばが目に止まったのは、1995年全国各地からカウンセリング研修会を主催の際に参会された方々を案内して、新潟県上越市の最賢寺を訪ねたお堂だった。新潟県三条市にお生まれになった曽我量深氏のことばである。
 
 今、このことばが私に届けられてきた。その背景はと問われれば、一人の人の思い込みにより、その欲望に振り回され、今まさに連日多数の他者を殺傷し続けている報道に触れている現実。言うまでもなく国内においても殺し合いは、日常茶飯事に起こっているのであるが、ショックは一入である。現実の人間の有り様の恐ろしさに、震えた。

 私達は自分にとって都合が良い相手を仲良しと思い、不都合に聞こえたことばの相手を拒絶する現実になっている。そのわが身に行き詰まり「カウンセリング」にであった。学び続けられたのは、ひたすらだった言える。ことばを換えると、打算がなかった、無目的に学びに向き合わせていただいていた。

 学びなき人間(ひと)ところに「和」は訪れない。
「カウンセリング」に学びてこそ、「和」への手立てが見えてくる。
「和」が実感にならせていただける人になる他にない。

 ウクライナへもロシアにも足を運べない身の私は、当センターに通ってきている方々にご一緒させていただき、ことばの相(すがた)に聞かせていただいている。
世界中の人間(ひと)が平和・「かけがえのない、たった独り」になる道である。