新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

「知らぬが仏」とは、まさに・・・・・・・

2013-07-31 08:41:42 | 私の声
 あなたは、どんな場合に「知らぬが仏」と言いますか。おもしろそうに言いながら、実は相手を馬鹿にしているような後味が遺る。
 「こんなはずじゃなかった」と言うことばを聞いてきたし、使っていたような気がする。ところが、ことばは用(はたら)いていたのでした。用(はたら)いているのです。今も。この私(仏)は、「ことばは用(はたら)き」ということばに、値遇(であ)えていなかったのです。カウンセリングに学ばせていただいたお陰様でした。

人が人間(ひと)として、共々に育まれ合いになるには

2013-07-30 15:47:43 | 私の声
 「言う」「聞く」のレベルでは、育まれ合いにはなれない。「言う・聞く」は、ほとんど大多数の方が無意識に交わし合っている日常語のレベルである。目先の用は足りても、人間性の広まり・深まりは起きない。ことばを変えれば、成長に発展できない。現に深まれないでいるではありませんか。深まれていない・成長しあえていないも、自覚にのぼらないでいると、言ってもいいのかも知れない。自他の尊重になっていないからである。「自他の尊重」は、学びにより獲得できるものである。「生活そのものが学び」になるまで、コツコツと。「作法」は、生まれながらにして楽(ねが)われているのです。どなたにも、成長し得る資質が宿されているのだから。宿されている資質が、生かされるために「作法」が在るのです。

親と子・夫と妻、等など人と人との関わりに、「作法」が欠落

2013-07-29 08:13:43 | 私の声
 人間(ひと)と人間(ひと)との関係においての、「作法」が常に問われ続けられている。その「作法」に頓着されないままに、ことばを発し続けられているから恐ろしい。自身のことばを省みないまま継続された時間は、自身はのみならず、他者ともどもの、心身にさまざまな形になって、歪みが自覚されるようになるのだ。家族の関係におかれては、さらに影響が大きい。食欲がなくなったり、不眠になったり、だるくなったり、意欲がなくなったり、不登校になったり等々・・・・・・・「作法」は、人が人間(ひと)に育まれ合うために、殺し合いにならないために、絶対におろそかにしてはいけない「大原則」なのだ。肉眼では見えないが、在るのです。カウンセリング研修の場では、「作法」が身につく学びのできるところ。知っただけでは全く役に立てることができないのです。新潟カウンセリング研修センター℡・FaX025-230-5320

カウンセリング楽習会「語らい」へのお誘い

2013-07-28 08:17:50 | 私の声
 こんにちは、今、あなたの心身の調べは如何ですか。耳を澄ませば、きっときっと心身は語りかけているはず。心身の語りを、声にして語ってみましょう。心身の語りを、あなたの言葉で語ることの意義を、語った後に味わえることになるのです。今私がさせていただいているように。声にならないまま、葬られてしまっては、ことばが生かされずじまいに。声にして、自身のために、共々のためにならせていただき合えるための、「語らい」を8/10(土)9;00~12:00/13:30~16:00 を開催いたします。事前に連絡を。NP0 カウンセリング楽習会「語らい」℡025-230-5320(小針6丁目バス停で下車 徒歩にて2~3分)参会費1000円

「言い合い」では、虚しいばかりか、心身の殺し合いになる。

2013-07-27 08:14:36 | 私の声
 「言い合い」になり、相手を刺した、殺したという人と人との関係が、日常茶飯事になってきている。大人も子どもも。「言い合い」とは、心身の殺し合いになるのだ。「イライラする」「人に会いたくなくなる」「やる気がおきない」等などにも。だから、この地に、この地から、「聞かせていただき合える」関係の輪を、広げたいのです。崇高な文化といえる。「聞かせていただき合える」関係は、一朝一夕でなるものではない。学びが積み重ねられて、身についていくものだからである。「聞かせていただき合える」関係の学びとは、ことばを変えれば、人が人間(ひと)として、成長への道程をあゆんでいくことである。この学びを志し、試みようとする方の表明を望んでいる。