新潟カウンセリング研修センター

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息づまるような・苦しいような感じになっているとき

2019-09-28 15:53:06 | 私の声
 生活のなかで、重苦しいような息詰まるような気分になっているとき、すべては自分と人との関係によって起こっている、と言ってもいいのではないか。相手がはっきりしている場合は、その相手の人に「私は今こうなっているの、私の想いを聞いてください。」と伝えてみるのが、思い悩まないで済む。だが、伝えてもスムーズに伝わるとは限らないが、一人で抱え込んでしまうよりは、やってみるとなんらかの学びがやってくる。どうせ通じないと、さっさと諦めてしまうよりは、やってみると意外な展開があるものだ。通じないと言うようなことになるときは、どちらも自分の想いを伝えたい、となっているときだ。一方が伝えたいに固執しているとき、とてもこのままでは通じ合えないなぁと気が付き、自分のの伝えたい思いを聞かせていただく方に、転換することはできることを知っている。これまでカウンセリングに学び、その手が打てるのは有難い。その相手と関わりを断ち、何年も抱え込み鬱積していた、と言うのはよくある。楽に生活させていただける知恵が、すでに用意されている。身になるには、学びのプロセスが必要だ。

新聞の記事から

2019-09-11 10:29:37 | 私の声
 「公立校  病休・休職 421人  県教委18年度調査  精神疾患多く」は、 昨日の新聞、新潟日報に掲載されていた記事の見出しだ。この記事を見て驚いたのではない。今後は、ますますこの傾向に向かっていくことは、容易に推測できる事態だ。大いに憂慮している。
 
児童・生徒のいじめや自殺、不登校が目に見えるようになっては、その対策に奔走しているばかりで、教師自身の在りようには、目をつぶったまま通り過ぎてきた。その無意味さ、弊害には、疑問にならないでいる鈍感に、教育の闇の深さが在る。「復職者のカウンセリングなどを実施している」と、あったが、復職者のみになっているところも、間に合わせにすぎない。すべての教師自身の人格の変容の手だてを置き去りにしている限りにおいては、教育は死に続けること間違いなし。教育になっていかないと。
 
さて、10月になって、新潟市の生涯学習センターによる、生涯学習として市民を対象にして「カウンセリングを学ぶ」を担当する。大勢希望者がいると聞いている。開催日はいづれも平日であるから、教師の希望者はいないであろう。休職中の教師が一人でもいたら幸いだ。以前はカウンセリング研修会を、三泊四日で開催した際に、教師の参加はいたものだが、今は全く見かけなくなった。時間と経費を用意されて、職場で命令される所へはいくようだが。おのずから学ぶ人は、甚だ少ない。児童、生徒には積極的に勉強しろと、言っている教師のすがただ。

十分に機能する人間に?

2019-09-02 10:36:20 | 私の声
 なんだかピーンとこない言葉に聞えることだろう。なぜかと言うと、経験的に。誰しも、自分自身が十分に機能していないと言う自覚がないのだ。その自覚があれば、もうすでにあなたはカウンセリングに出会っているであろう。十分に機能していない、などと言った言葉が、やってこない。その言葉の欠落しているところでは、自覚になり得ない。
 それでは、十分に機能する人間を望めないのか、いやいや、その道は開かれて往くのだ。私が現にその道を歩んできたし、歩んでいるし、これからも歩ませていただいて往くに違いない。歩める手だてを知ってしまったし、身にならせていただいてきているから。
 まず、誰にでもおそらく経験しているであろう、「どうしたら」「苦しい」「死んでしまいたい」「元気がでない」「憂鬱」「あの人と話したくない」「あの人さえいなければ」等など、の気持ちになったときが「カウンセリング」に出会うチャンスになる。そうなっている自分をごまかしたり、一人で抱え込み、一人で頑張ればなんとかなると思い込み力み、死んだようにして生きていく人になるか、十分に機能する人間に向かって新しい自分に生まれ続けられて往けるかに、行動に移れるかにかけられている。果てしなく、どこまでも変容させていただける資質は、すべての人に、すでに具えられている。
 「十分に機能する人間に」への道程を歩ませていただけるのは、「カウンセリング」に託されているダイナミックな用(はたら)きなのだ。十分に機能していなかった自分だったんだなぁと、懐かしめるものなのだ。「なんとかしたい」と思っているだけの人が実に多い。みずから、すでに用意されている道を、閉ざしている現実。