新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

すべての人間(ひと)は救われる・・・

2014-04-30 08:19:15 | 私の声
 すべての人間(ひと)は救われるようになっている。だが、そう聞いても身に実感のないことであろう。なぜならば、〝救われた”という実感になってこそ言えるものだから。まず、〝救われていない”が、さだかではないのだ。困った・どうしたらいいか・なんとかしたい等と、思いはしても言ってはみるものの、思いっぱなし言いっぱなしといったところで通過してしまっているようだ。〝困った・どうしたら・なんとかしたい”等と思う言うことばにこそ、成長への願いが託されているのだが・・・救われ(成長)るためには、心底困れていたかにかかっているといえる。自分ごととして思えているか言えているかである。はっきり言おう。真に困れない・悩めない人は、救われやしない。そして、そのことばに向い合せてもらえる関係・いわゆるカウンセラーが必要である。しかし、一口にカウンセラーと言ってもさまざま・・・救われた・成長しつづけられていけるが、自分の身にいただけるには、謙虚さと出会いであろうと。言いっぱなし思いっぱなしじゃ、ことばがかわいそう!。ことばは成就したがっている・・・・・・・。

人間(ひと)に生まれさせてもらえる道

2014-04-27 09:04:00 | 私の声
 夜明けが早くなり、防寒着など身にまとわずに早朝の庭に出られるようになった。草木や虫に会えて、いろいろが感じられ想える生活が有難い。教われるという予感があるようだ。先人が遺してくれていることばに、「悉有仏性(しつうぶっしょう)」がある。雑草(ぞうそう)の一本に、かけがえのなさを実感させていただけるともいえるし、有限に無限を観させていただけるといってもいい。都度都度新しい発見・誕生にならせてもらえる有難さである。人生を生まれてから死に至るまでの、時間の経過ととらえていやしないだろうか。そうとらえていたならば、飽きもこようし詰まらなくもなるであろう。ところが都度都度、人に生まれさせてもらえる・人生道がちゃんと用意されていたんだよ。測り知れない深さと広さの不可思議な道が、どなたにもどなたにもね・・・・・・・

夜明けの庭でトマト等の苗を植えつつ

2014-04-25 09:41:19 | 私の声
 夜明けの庭で昨日買い求めた野菜の苗を植えつけていたとき、ある場でのことばが蘇えってきた。「自分はお世話になるだけで、世話人にはふさわしくないので・・・」と、ある参会者の独りに聞いた。「お世話になれる人は、世話人だ。世話人が一番学べてお世話になっているよね、って以前に・・・」のように、師のことばが私に遺らせていただいている。両者のことばは両者のことばとして、うなずけている。ところで、お世話になるだけって、あるだろうか。どうも、そのように思えたり言ったりはするが、なさそうだ。事実成り立ちようがないではないか、と。植えつけたトマトと地(土)と私と、すでにお世話にならせていただき合って在るの確信である。

その木の名は、「ヒポクラテスの木」

2014-04-23 08:28:06 | 私の声
 大学病院を訪ねた時、入退院の玄関脇にひときわ高い木が目にとまった。思わずその木の元に近寄ると、名前と経緯が記載されていた。「ヒポクラテスの木」であることを知った。そして、「この親木の下で医聖ヒポクラテスが講義したといわれ、蒲原宏氏が地中海のコス島より種子を持ち帰り寄贈す。」と。郵便の父と呼ばれている前島密ゆかりの地・高田の郵便局や、新潟の郵便局に「ハガキの木」が植えられていたのを思い出した。このハガキの木「多羅葉」に最初に出会ったのは、四国の高知での研修のおり、牧野富太郎植物園を訪ねた時でした。それまでは、きっと郵便局にあったであろうその「多羅葉」が見えずにいたようだ。郵便局を象徴している「ハガキの木」、病院を象徴している「ヒポクラテスの木」だ。ヒポクラテスの木はプラタナス、我が家の玄関に、そのプラタナスの球状果が一対、私の出入りを見ているようだ。

「敵」 と、ことばのきているその人間(ひと)・そのとき

2014-04-21 08:00:04 | 私の声
 「敵」とことばがきて言っているその人間(ひと)・そのとき、語調は強く眼差しはきつく、皮膚は青ざめこわばって見える。他者のことばは否定的に聞こえていくようだ。まさに、「敵」ということばが、全身の細胞のなかで燃え盛っているかのようである。「敵」が現に、そのときその人間にとって居るのであろう。自分の外にいること、信じて疑いにならずに。だから、味方がいないから自分で身を守らなければと。
 固定しているものは、なにひとつないと、先人は遺してくれている。私はそのことばに救われてきたし、いるし、いけること間違えなし。私には敵も味方もいない。敵ということばに執着するは、病にも戦争にも発展するし、している。柔軟(にゅうなん)にならせてもらえてゆけるための、「敵」ということばは陣痛の産声に聞こえてきた。共々に救われ合える、もう一人の独りの人間がどうしても必要。真に身が守られるようになるために。