新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

笑い会えたとき

2018-09-25 09:14:24 | 私の声
 「壊されるのが怖い」とAさん、そのことばを聞いて「私は壊れるのが嬉しい」と言った。「えっ嬉しいの?」とAさん。「えぇ嬉しいの慶びね」と私。「怖いと言いながら、なぜか私笑っているねぇ」とAさん。壊されるとなっているのだからして、怖いになるのは当然であろう。壊されると思い込んでいる。壊されるように、いのちはなっていないのだが。自分自身が壊そうとしても、他人が壊そうとしても絶対にかなわない。この事実をこの身に名実ともに顕かにさせていただけたのは、学びを重ねてきたからこそである。ところで、ここで指しているところの壊すとは、ことばを換えると自分の眼に見えていない「捉われ」と言えよう。捉われは、自身の目に見えないまま、見ている自分の見えよう・考えよう・思いようの世界。自分一人では気づかせてはいただけない。もう一人の人間に聞いていただけた瞬間に起こる稀有なできごとである。おのずから壊れ・未だ見ぬ広々とした世界に運ばれてゆく。自分でできない・他人もさせようとしてできない不可説・不可思議な、まさに転生である。壊れた瞬間に起こる。いのちの成長である。この慶びに値遇わせていただけたのは、カウンセリングに出会えてであった。この体験は予想だにしていなかった。この学びは世界中のどなたとも通じ合える確信になっているし、どんな苦しんでいる方にも、いつでも手を差しのべさせていただきたい想いにならせていただいている。

教育は死んでいる

2018-09-22 08:27:31 | 私の声
「成長」と言うことばを、普段よく聞いたり言ったりしているが、ほとんどの人は自分の身に実感の無いままに過ごしている。肉眼に見える範囲の変化だったり、漠然とした感じでだったりのところを、いい加減に言っているだけ。精神の成長は、ことばに聞かせていただける学びを必要としている。コツコツ丁寧な学びには、学ばせていただける人間に値遇(であ)えるかどうかに、かかっている。私はカウンセリングに出会い、尊敬できる師に値遇えてしみじみ言える。「成長」とは、が見えて「成長」への手だてが見える学びを、学校の教師こそ必要なのであるが、全く関心すらなく教育はすでに死んでいる。毎年県内で3泊4日カウンセリング宿泊研修会を開催するも、教師の参加は全くない。児童生徒の自殺・いじめは深刻化するのは、当然のこととして捉えている。事件が明るみに出るたびにその対策を考えているが、もういい加減にお手上げにならないと、道は開かれていかないのである。そのような対策でなんとかなると思っているうちは、学校教育の目指せないと目覚める教師が一人でもいないのか。周りから指摘されてではなく、自分自身に深刻に感じられる教師は、一人もいないのが恐ろしい。どこまで受け身なんだ。学びはおのずから能動的にしてこそ、真の実力が育まれるのである。

学校の先生へ あなたの声にして!

2018-09-15 09:37:11 | 私の声
 「いじめ自殺学校に原因」「学校自身が整備した行動計画が機能しなかった」「学校には法や組織が整備されていても、命を救えなかったことを深刻に受け止め、対応を考えてほしい」は、平成30年9月12日の新潟日報の記事からである。このような報道は、後を絶たない。そのたびに、再発防止具体策を求めるも、後を絶たないのは至極当然のこと。現状のような教師の研修の在りようでは、ますます深刻になる他はない。教師一人一人が「十分に機能するような人間になる」ような学びが欠落していることに、まず思いが至ること以外に児童生徒は救われていかない。まずは、学校の児童生徒に関わる先生方、学びましょ!!!。これ以上子供たちの命を落とさせないように。私は心からお手伝いさせていただきたい。救われていく手だては在るのですから。あなたの目には見えずとも。プライバシーは厳守です。一人でも学びはじめられる方が訪ねて来られることを、願っています。これ以上加害者にならないために。今こそ学びのきっかけにして。

関係に学ばせていただく身

2018-09-11 09:27:55 | 私の声
暑いねぇ と交わし合っていたことばも、熱中症・水分をこまめに と聞くことばも過去になった。虫の音は夜の空気を割れんばかりに震わせ、茗荷茸の根元には水分を含んだ白い花を付けた茗荷が見え始めてきた。尾花は真っ直ぐに天に向かい、空は秋色・空気は秋の香りがする。体がホットしている。そして、私は関係にことばをいただき、ことばに生かされている。これまでも・これからも、語って聞かせていただいている今だ。
 あるところで、労いのことばや慰めのことばを聞かない、と不満そうに聞えた。先に労いのことばとしてのことばがあるのではない。聞いた人に労いに・慰めになったときのことばが労いのことば・慰めのことばと言えるのだ・と。日常はどうだろうか、労いのことばや慰めのことばは聞く機会はある。挨拶としての言いなれた聞きなれた通り一遍のことばは交わし合う。そこはそことして、真に身に労いになる・慰めにならせていただきたい、と人は願い・願われているのではなかろうか。安心して自分の想いや感情が言えて聞いていただけて、慰めにならせていただく体験は、日常の人間関係のなかでは得られない。関係に学ばせていただき続けているこの身、どこまでもどこまでも、限りなく広く深き人間にならせていただきたくて。