新潟カウンセリング研修センター

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私の誕生を妨げてきた私の言葉たち

2018-02-28 08:31:55 | 私の声
 私の誕生は妨げられてきていた、と今にして懐かしく想える。この自分に届いてきていた自分の言葉に、誕生させていただけずに闇に葬られていた。自分に届いてきていた自分の言葉は、声にできていなかったから、光が当てられずに。それ故に、自分に届いてきていた言葉に値遇(であ)えなかった。届いてきていた言葉は、それまでの人的関わりに関係してきたものからに違いない。そして言葉にできていかなかったのも、それまでの関わりからいつのまにか、身についていたものと言える。自分に届いてきていた言葉は、声にしない癖がついて疑問にもならずに過ごしていたと今にして言える。言葉が声にならないまま闇から闇へ、積もり積もっていつの間にか不自由になることができた。いわゆる不登校と言われる独りの人間との関わりに、不自由な感覚になり、カウンセリングに出会うきっかけができ、届いた言葉を声にして私に値遇(であ)わせていただける歩みが創められた。「どうせ言っても分かってもらえない」は、声にすることを諦めさせ、自分の誕生を自ら妨げになっていた言葉の一つ。カウンセリングに出会った後、もうすでにその言葉から開放され、声になるごとに誕生させていただけている。

生身は信じられる

2018-02-20 08:54:44 | 私の声
 どれだけこの生身のことばを失ってきた・続けられてきたことかを想う。当たり前のようにして。自覚になっていなかったから疑うこともせにできていた。カウンセリングに出会い、この「私」に値遇(であ)わせていただいてきて、心の(考えた)ことばと身の(感覚)ことばがリアルに聞えてきた今、そこに関心が起こっている。意識(私が考える)と生身(感覚)の乖離は不健康を生んでいる。私が良しとしたことばには、なにか落ち着かない感じがやってきてくれるし、きたことばが次を語ってくれるから、お任せできていられる。有難い。ことばを声にして私させていただける体験こそが信頼に値する。たくさんの関わりと、ときを経る必要があった。継続の意味は継続してみていただけるのだ。カウンセリングの学びは、どこまでもどこまでも広く・深く・・・

人生は思うようにできると、思い込んでいる

2018-02-11 16:33:32 | 私の声
 その人の苦悩になるところは、「人生が思いどうりにならない」場面に直面したときに、自分の苦悩として自覚させられるのではないか。それが職場での出来事であったり、学校でのことであったり、家庭内の夫婦・親子でのことであったりする。二人以上の人がいるところでは、ことばが通じ合わない出来事に、直面する。ともどもに救われ合うには、如何にあったらいいのか。ともどもに傷つき合い・殺し合い・憎み合い・避け合いに苦しみ貫いた人は、いよいよ学ばずにはおれなくなってカウンセリングのドアをノックする。カウンセリングは、どんな人の如何なるいとなみにも常に開かれている。カウンセリングに託されているのである。どの人にも間違いなく、その人の前にすでに一筋の道が用意されているのであるから、一筋の道をご一緒させていただく。学びを重ねるにつれて「人生は思いどうりにできると思い込んでいた自分・思いどうりにできていたと錯覚していた」に気付かせていただけるのであろう。人生の彩が移ろい続けられてゆける。

一筋の道は、一本ではない

2018-02-04 07:57:19 | 私の声
 カウンセリング研修会でのこと、ある方がもう一人の方の言葉を聞いて、聞いた自分の感想を声にした。すると、場に臨んでいた一人が、「その前に遺った言葉を!」と順序が違うとでも言うかのように促す、促されたその方は「私は感想を言いたかっただけ、あなた自分でやったら!」と。また、別の方は、関わっていたその方に「どうしてぼくがあなたに合わせなくちゃいけないの、強いられなくちゃいけないの」と。
 どうやら、声をかけた方のところに、自分が良しとしたパターンがあったようだ。自分にあると、当然のことながら他者のするところは、受け入れられない。そして、要求になっている。カウンセリングの学びは、自在に始まり自在に終わる。学びは生涯にわたる。パターンに陥ってしまったら、お終いだ。カウンセリングはその命を失う。言葉を換えると、目の前の生身の人間に、即せなくなる。単なる方法になっているからである。カウンセラーが中心になっている。恐ろしい。しかし、世間には、このようなカウンセリングが巷に満ちている。短時間で資格が取れるとうたっていたり、大変憂慮している。疑問を持つ方は、実に少ない。ある場では、文部科学省ではとか、厚生労働省ではと内容に限りがあり、人間のいのちが真に求めているものには到底応えられるものではないことは、はっきりしている。一般の方には見分け憎い。