新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

「一期一会」

2015-03-27 08:57:24 | 私の声
 いつの頃からか目にしたり聞いてきたことばに、「一期一会」があった。聞きなれ見慣れつつも、今一つ吾心身と離れていた感が感じられていた。言い換えれば、意味として知っていると言った、いわゆる外ごとだった。今は「一期一会」のことばのお陰で、「また」「前も言っていた」「同じことばかり」などのことばにならずに済めているのだ。研修の場で師に折りに触れて、「一期一会」のことばを聞かせていただきながら、次第次第にこの身に慣らせていただけたと言える。他者の語りを聞かせていただくとき、聞かせていただき易くなった。救われてきたことばは取り上げきれないが、そのうちの一つと言えよう。声になったそのとき・そのことばのかけがえのなさに聞かせていただきたいと切望になれるところは、「一期一会」のお世話になっている由縁であろう。

素顔の美しさ

2015-03-19 07:47:48 | 私の声
 車を運転していて赤信号で停止した時、何気なくバックミラーに目がいっていた。思わずそこに写っていた吾顔に、見とれていたかつてのできごとを思いだしている。なかなか素顔いいじゃないか、と。新たな発見といえるできごと。日常当たり前のように見過ごしてきていたことが、鮮やかにクローズアップされた感じである。お化粧するのには、その人その人に思いが有りそう。例えばテレビの化粧品のコマーシャルによれば、しみ・そばかす・しわ・たるみを見えにくくして、若く見せるためなどに効果的であるとして使用を促している。効果的に役立つような化粧品の紹介が盛んなのは、しみなどを気にしている人が多いからであろう。使用の前後を比較して、使用後がどれほどきれい(化ける)になったかを強調したり、喜んでいる様子に覚めてくるのだ。
 バックミラーに写った素顔に始まった素顔ではあるが、その物理的な素顔にとどまってやいないゆえに。これまでの吾あゆみを想うに、素顔に値遇(であ)いたくて値遇いたくて倦まず弛まずの道程だったと言える。隠したり、無理したり、鵜呑みにしたり、鈍感になっていたり、拒んでみたりして、歪んでしまっていて、ことばの素顔・あるがままが見えにくくなっていた。このように言えるようになったのは、さまざまな人たちにお世話になりながら、カウンセリング(仏法)に学び値遇わせていただいてきたお陰でした。歪みがなくなったのではない。歪みが歪みとして歪みに値遇わせていただき易くなれたと言える。あるがまま(ことばの素顔)に値遇えるに優る歓びはなし・・・・・・・。 

「愚の奥深さ」のことばが目に止まり

2015-03-07 08:35:06 | 私の声
〝愚„という文字ずらを見て、多くの人はなにかしら否定的な思いがやってくるのではないか。賢いことはよいことのように、知らず知らずに思っていた私がかつてはいたように。愚かは恥ずかしい・賢くなりたいがために、他人が伝え残した説明や解釈・方法を知り覚えればよいと、思い込んでいた頃があった。やってみて、どうやら違うらしいと、落ち着けなさに教えられたのが、カウンセリングと名付けられた研修に足を運ぶことに。
 つまずいたような心境の私の声に、「実力だ」とことばをとどけてくださった人間(ひと)がいた。衝撃的に心に至れたのである。機(ひと)に臨み応じられたその人間(ひと)のことばに、測り知れない学びをいただき続けてきたしいるしゆくであろう。以後師と仰いでいる。「実力だ」を、私のことばに換えると、〝他人事でない”と聞こえてきていた。私の愚かさを聞いていただき、師のことばに聞かせていただき、育まれ合えたご縁に感謝させていただいている。師の他者のことばを聞かせていただくを超え、ことばに聞かせていただくに転じられたのである。在り難いことに愚かさは終わりを知らず、私を育み続けてくれている。いのちはどこまでもどこまでも、育まれ合いたがっているようだ。育まれ合いには、もう一人の独りの人間(ひと)が、絶対に必要だということを示してくれている。愚は、輝きを宿し愚に成長させていただける身・・・・・・・。いのちは、知による固定化を望んではいない。
 「その知や及ぶべし、その愚や及ぶべからず」と。知の浅薄・愚の奥深さにしみじみ感じ入っている生活になっている。 

「思いやり」と言っている、その真相

2015-03-01 08:37:42 | 私の声
 これまで、よく聞いてきたし言ってきた「思いやり」と言うことばであるが、今じわりじわり私事になって尋ねさせていただいている。言うは易しであっただけに、言うは易しに気づけないまんま、言いっ放しになっていたのであろう。「思いやり」と言うことばの深みに味わわせてもらえたのは、もう一人の独りの人間(ひと)との関わりがあってこそである。その関わりは、どちらかと言えば、快いとは言えないようなことばと、その声の音色に、聞かせていただけたのである。その人間(ひと)に生じたある感情・ネガな評価のようなものは、私なりにうなずけても、私は私として全く別の世界で動いていたことは、はっきりしてきたのである。今後、他者との関係において、寛容さ・思いやれそうな手応えが身に覚えた。この体験は、不愉快さからのがれられる妙法と言える。年月と熟考の末、「思いやり」の真相に値遇(であ)わせてもらえたのだった。本日このとき、借りものではなく、わが「思いやりの妙法」の誕生になった。
 「親しみあふも深い業縁に違ひない。されど憎しみあはねばならぬといふことは一層深き業縁である。」(歎異抄・金子大榮氏のことば)に通じておりふと思い出されてきた。また、懐が豊かになれた貴重な体験学習になった。これまでの学びには、「障り」が不可欠になっていた。障りに育まれあってきたし、これからも・・・・・・・。