ある場で「私が失敗したんです」と聞いた。失敗と聞くと、成功に対することばに聞こえてくる。「私が失敗した」と言えたら、変わられる。他の誰でもない、この私なのだからと。すると、「失敗」の文字が私にクローズアップされて届けられてきた。「敗れるを失う」となっているではないか。そもそも、「失敗」は失敗にならせていただけるために用意されていたのだ。ことばを換えれば、失敗に救われるようになっていたと言わざるをえない。現に私が今救われたように。ところが、なんと失敗したと言って落ち込み、希望を失っている・いく人の多いことだろう。「私が失敗した」とはっきり言い、あるがままに聞いていただけないが故と、わたしに想わせていただけてきた。
この身が語った後にその方が語る。この身の語ったところと顕かに違うが、この身の語ったところとして語っている。どうやらこの身の語った内容を聞いて、自分の感想を言っているようだが、そのかたには自分のこととしての自覚はない。この身の語ったところは確認がないままに、こちらが言ったとみなして続けられる。この身に障りが発生。動きづらさがやってきて、聞けなくなっている。この障りに値遇わせていただける関係に恵まれて、在り難い。そうでなければ、わたしがわたしとして・そのかたはそのかたとして、現にかけがえのなさにはなれないどころか、どちらともいなくなってしまっていた。ともどもに救われ合える道は、ちゃんと用意されているのだが、生身のこの身に実感できるかどうかにかけられているのだ。なにがあろうとも、そのかたのことばの相(すがた)に、唯・聞かせていただくだけであった。改めて革めて人間として当然のことだと、痛切に身に沁みてきている。唯・聞かせていただけてこそ、わたしに最高・そのかたに最高になれるのだから。