新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

心身はいとなみ・呼応

2014-03-31 07:01:16 | 私の声
 昨夜は「人体ミクロの大冒険・体内世界」とした、テレビ番組が放映されていた。人体と言ってしまえば、他人事・単なる知識に終わってしまいそうに聞こえるが、このわが心身に聞いてみること肝心。細胞として認められたそのときから、すでにこの心身(細胞)は私の思いを超えたところで、着々といとなみ続けられてきたし、いるし、ゆくのだ。生かされいると言わせていただいてきた。肉眼では見えない微細な細胞が、見たり書いたり語ったり聞いたり嗅いだり感じたり・・・測り知れない用(はたら)きになって、用き続けている。いわゆるカウンセリングの学びは、すでに用き続けている細胞に耳を澄まして、吾実感になる学び合いだ。その神秘的な世界は、一人の作業では開かされない。もう一人の独りの人間(ひと)が絶対に必要でした。「今・ここ」に顕かにならせていただくために。細胞は呼応し続けられている。たった今もね。

雨の名に想う

2014-03-30 09:11:27 | 私の声
 目覚めてみたら、今朝は雨。昨日、数色の芝桜を植えつけた後だから、芝桜も喜んでいるように見える。雨には、いろんな名が付けられている。一冊の本にして市販されているようだ。よくよく想えば雨は、そのときその人間(ひと)に届けられたことばが、名称になったのであろう。すでに一般に知られ使われているものをはじめ、これから名付けられるものは。そのときその人間だけの雨である。本に収まれないほどにあっておかしくはない。一般化されるものがあれば、されないものもあり。しかし、いずれにしても、名付けたその人間の雨であると言える。その名になったその人間のそのときの想い・背景・心境なりを、他者が分かることはできないのだから。分かったようなつもりになって、拝借して言わせていただいているのであった。このように言えて、はっきりしてきた。どなたかが名付けた名を、あたかもその雨がその名であるかのように、言っていた自分だったと。

教育は、解釈・分析・観念による制度のみでは救われない

2014-03-29 10:14:52 | 私の声
 「自分は駄目な人間だと思う」と答えた日本の子供たちが84%だったと。教育に関わるテレビ番組で知った調査の結果である。さまざまな肩書を有した方々が、一堂に会して長時間論じ合うものであった。日本の子供たちは、かつて学校教育で行っていた、いわゆる「ゆとり教育」をやめた後に、学力は他国と比較してトップクラスになったが、自信を失うに至ったとか。「正解主義だから、受け身の教育だから、正解ありきが前提になっているから、」であり、したがって自己肯定感になっていかないのだと。解釈・分析によれば、そのとうりといいたい。解釈・分析は、何を導くことになるか。制度をどうするかに向いていかざるを得ない。これまでもしてきたように。ゆとり教育をやってはみたものの、ゆとり教育ではよくならなかったからと、ゆとり教育のせいにして。真にゆとり教育がなされていたと、思っちゃいないのだ。ゆとり教育の奥深さは、一朝一夕では味わえない。そのことに目覚めない限りは、循環は止まない。教育は制度では成せないのだと、知らしむほかはないと。生身の一人の独りの人間(ひと)と生身の一人の独りの人間の、関わりの質が問われ続けられている。厳かさに委ねられているのであるからして。

捏造の疑い

2014-03-28 14:07:03 | 私の声
 疑いがあるならば、どうなっていたのかを証さなければならない。他者のいのちの時間を奪ったのであるからして。命がけでみなに明らかにされなければ、納得がいかない。個人と個人が捏造された・捏造したのとは異にして、恐ろしく恐ろしい。奪った時間は取り返せないからこそ、心からの謝罪と誰がどこでどうしたのかを明らかにすることが、今からできることではないか。謝罪とは、謝罪をすればいいのではない。謝罪し尽くせなさを、全身の細胞ひとつ残らず、また骨の髄にまで感じさせていただくことではないだろうか。捏造して、犯人にすること以上の重い犯罪は、思い当たらない。別にいるであろう真の犯人を捜す任務を怠っていたのは、どうするのか。

ことばに運ばれて「今・ここ」

2014-03-27 08:45:51 | 私の声
 庭の草木たちが皆、それぞれの彩り・形・香りになって語ってくれているようだ。「春は来べき時には来る。花は咲くべき時には咲く。」の、今朝の紙面の相馬御風の詩を。この心身は、自然の摂理から外れようがない。生きとし往くるもの、いや万物は流転になっているではないか。すでに。苦しい・悲しい・憎らしいに失望し、苦しさ・悲しさ・憎らしさに値遇(であ)えて救われて・・・・・・・独りでは独りにならせてはいただけない。もう一人の独りの人間(ひと)がいてくださってこそでした。