新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

お知らせ

2015-02-27 07:00:07 | 私の声
 日常生活を送りながら、今の自分自身のままでいいのか、なんとかしたいと思うがどうすればいいのか、と考え悩んでいる方、職場や家族内の人間関係のありかたを変えたいと思っている方、カウンセリングに関心のある方、他者のためになれるようなカウンセラーを目指したいと思っている方、どうぞあなたの声を届けてください。思い立ったときが始まりです。あなたの思いに、親身になって応じさせていただきます。プライバシーは厳守されます。  ☎ 025-230-5320(新潟カウンセリング研修センター)

東日本大震災の被災者を訪ねて

2015-02-21 07:57:18 | 私の声
 大震災発生のあの日から4年にならんとする今、宮城県は石巻、福島県は二本松に訪ねさせていただいた。岩手県と宮城県の仮設住宅には、震災直後に被災者を訪ねさせていただき、福島の地は、ずっと気にならせていただいていたのだった。この度被災地支援活動を継続している僧侶の方々に、ご一緒させていただくことができた。                                                        「もう、半年も経てばここから居なくなる。」「着のみ着のままで逃げたからね、一か月も二か月も同じものを着たまんまだったけれど、食べ物は直ぐに届けてもらった。薬を持って逃げれば良かったんだが、血糖値が・・・」「あの向うの高台に移る家ができる。2~3年先になる。」「辛かった! 流されてしまった人たち、可哀想だった。」「苦労はなにもない」と。
 「野菜やお米を買うときは、まず産地を見ますね。できるだけ、この地から遠いところの物を買います。」「このまま、この地にいてもいいのか、この先どうしたらいいのか。他の県へ行った人で、福島県から来たと言ったら嫌がられたと・・・」「いくら、数値上安全とされていても、安心はできない。」と。
 石巻の、二本松の地に立って、その空気を共々に吸いつつ、その人間(ひと)のところを、その人間のところとして、その人間のいまに、肉声で聞かせていただくことができた。「しかし災難に逢う時節には災難に逢ふがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。」は、その当時大地震の発生した折りに、あちこちに地震見舞いの手紙を出したとされた良寛のことばである。災難(障り)に託されて在る光に値遇(であ)わせていただけよ!、ほらほら、すでに、とっくにね、ことばになって、あなたのためにわたしのために音ズレてきてくれているではないか。と、聞こえてきているこの身である。

「鬼は外・福は内」 で 真の和になれるか

2015-02-10 09:30:17 | 私の声
 節分そして立春のことばを聞くと、ホッと感が訪れる。昨日の冬が今日の春に変わるのではなかろう。冬は春に迎えられ、春に摂め取られてゆく冬なのでありましょう。陽の光・空気・虫や草花に感じさせてもらえている季節の移ろいである。一年に4回ある節分だが、冬から春へのときにだけ生活の中で取り上げられているのは、春を待つ思いからか、と。
 「鬼は外・福は内」は、毎年このときにテレビの映像等を通して聞こえてくる。学校では行事化のようになされていたことが、思い出されてくる。鬼に見立てた相手やことばに対して、おもしろそうに豆をぶつけて追いやる情景が。「鬼は外・福は内」ということばの相(すがた)を、表面的に捉えてしまっている感は否めない。その後味の虚しさに語らせていただこう。
 教師が保護者が全ての人間が、「鬼は外・福は内」のことばに立ち止まり、このことばに託されて在る大いなる意図に気付けたら・・・・・・・。現に人間と人間の悲劇になっている関係が見えてくる。よく聞かせていただくんだよ!と、しきりに呼びかけてくれていることばだ。「摂取不捨・自利利他」「相手のためにならない私のためはない」「かけがえのないあなた・私」は、師に聞かせていただき私をして質させていただいている。自分が気に入る・気に入らないレベルで、邪魔に思っているものを追いやれば解決でもするかのような思い込みが見える。真の平和は、敵を作ったり味方を作ったりのようなありようのところには訪れやしないことに気が付かなければならない。肉眼に見える・見えないところに破壊が興っている現実。学び合い・分かち合い・育まれ合いを、いつだっていのちは求め続けているのだから、いのちの声に順おう。
 2月中旬 東日本大震災の被災地に足を運ばせていただく。そのお独りの肉声に分かち合わせていただきたい・真の平和に値遇(であ)わせていただきたい一念に。
 

「心の闇」に想う

2015-02-04 07:25:57 | 私の声
 悲惨な事件のような報道に接するたびに、「いったい心の闇はなんだったのか」と言う言葉を聞く。何かしらこちらに想定されたりされなかったりのような心の闇があるとみなして、その相手に向けて、言い放っているように聞こえてくる。なんの為になるというのだろう。いや、興味のためになのだろう。その場限りの興味として得られる満足のために。ところで「心の闇」とは・・・「闇」は広辞苑によると、暗いこと・光のないこと・思慮分別のないこと・心が乱れて迷うこと・先の見通しがつかないこと・絶望的であること・世人の目にふれないこととあった。一般的な意味として状態として、うなずけるところである。そこで、このままでは終われない。何方も此方も生身の身は、真のためになりたがっていること違わない。「心の闇」と言う言葉に託されている救われていけるための「手」を欲しがっているのだ。光になれるような・思慮分別になれるように・先が見通せるように・希望がもてるような「手」を私は伝えたい。己の声にすることである。そうすれば、他人事になっていた己に気づかせていただけよう。己のことばが、己の身に聞こえて響けたならば・・・・・・・。この身の「心の闇」に値遇(であ)わせていただけるは、無上の歓びである。「心の闇」は成長の源になっているのであるといいたい。容易でもあり容易ではない。大いなる用(はたら)きにお任せできてこそ。