新潟カウンセリング研修センター

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「見守る」では「見守りになれない」

2013-12-29 07:39:53 | 私の声
 人間(ひと)が「見守る」ということばで、表明しているところには、その人間の「我」が満ちている。「見守ってきたんだけど」と、いずれ言うことになったり、「見守っていたつもりでした」とも言ったりもする。そして、ことばは凶器になり、共に心身の殺し合いになるのである。「見守る」とは、そのようになる運びになるようになっていたのだから。その空虚さに学べばよいではないか。
 「自分の都合・評価・力み・方向などが、自身にはっきり認識できて迷いながら、より真なるものに値遇わせていただこうとする前向きな姿勢・問うことができている人間」を、見守り・見守りになっている人間、と今は言える。特に教育や育児に携わっている方に、問われているところであり、問われなければならない。殺しているつもりがないようだが、殺されている人間がいるのだから。