新潟カウンセリング研修センター

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「言語道断」に想う

2015-01-28 09:38:36 | 私の声
 テレビの報道で最近よく聞こえてくることばに「言語道断」がある。相手に向けられて怒りが込められているように、表情や語調や文脈から聞こえるような使い方。聞いている私には、違和感が感じられてならない。限りない広がり・奥深さ・不可思議は、到底説明ができない、と「言語道断」にその意を聞かせていただいている私である。そこでは、対する相手ではなく、ことばそのもの。「言語道断」が言語道断として、言語道断のことばの素顔に終始になったとき、落ち着けているこの身である。カウンセリングに人間の深さを想い、東洋思想(仏法)に測り知れなさを味わわせていただいており、まさに言語道断と表す他はない。言語道断のことばのいのちが、見失われたままの日常語が虚しい。ことばが嘆いているのではなかろうか。

自分のためにならない「ことば」はない

2015-01-21 08:24:59 | 私の声
 ここまで、ことばのお世話にならないときがなかったはずなのだが、その自覚も頼りなく過ごしてきていたように思う。カウンセリングに出会ってから私なりに、ことばが少しずつ大事になってきたことは事実。カウンセリング研修でご一緒していただいた、多くの方々や師に値遇(であ)えたお陰である。もう一人の独りの人間(ひと)なくして、「ことばが大事になる」学びは体得できなかったであろう。あたたかく厳しく応じ合い、育まれてきたのであった。ことばに値遇わせていただくというできごとは、捉われからの開放になった。真に自由人間(じゅうびと)に。先人のことばに、「有限と無限との対応」がある。有限の私(ことば)が有限の私(ことば)に値遇えたところ無限と言える。いかなることばも私のためになれるようになって、私を尋ねてきてくれているのだ。そのことに気付けないままでは、人生はない。人に生まれさせていただけないのだ。どのことばも、どのことばも、私を私に生まれさせてくれるようになっているのだと、私のことばで私の声になることができた。ことばにして、ことばにならせていただく道一筋に。聞きにくい・受け入れがたいことばに、値遇えたら、聞かせていただけたら、有限に無限がいただけるとき。必要なことば・不必要なことばが、無自覚に在ってしまっている自分が、顕かになることはすごいことだと言える。

私が「傍観者になっていた」といえるとき

2015-01-09 08:24:59 | 私の声
 傍観者になりたくないから„ということばが新聞を読み進めていて目にとまった。東日本大震災の被災地に足を運び、支援をし続けているかたのことばだった。ふと災害発生直後に、岩手県と宮城県の仮設住宅に、被災された方々を訪ねたことを思い出されてきた。兎にも角にも、一人の独りのその人間(ひと)の肉声を、聞かせていただきたい。よりそわせていただかないではいられない。使命感のような気持ちで。あのときから、まもなく3月で4年にならんとしている。紙面で紹介されている方の傍観者„は、それはそれとして、私にとって被災者は„ということばになって、そのことばに鈍感になったまま通り過ぎようとしているときだ。そこには、生身の人間(ひと)がいないからだ。一人の独りの人間(ひと)の哀しさを思う私が感じられていないとき。言い換えれば、被災者というひとくくりにした、一人の独りの人間はどこにも存在していないのだから。傍観者になっていた、と気づかされたことばの相(すがた)に被災者は„という言い方がある。不登校は„人間って„女は„のような類のことばも、日常よく聞くことばである。
 今年は、いまだ訪ねさせていただけていない福島県にと。肉声に聞かせていただき、゛救われた〟と、ともどもに感じられたら、それ以上の歓びはない。 

甘え

2015-01-01 09:10:54 | 私の声
 2015年の新年を迎えた今朝は、地面に薄っすらと雪が咲き、雪明りをいただいている。この雪面を「甘え」ということばで、人生の足跡・今ここを刻印しておこう。しばらく前から私を尋ねてきてくれていることばは、「甘え」である。この「甘え」ということばに、自分を尋ねさせていただけよ!と、しきりに促されているように想えてきてならないからである。かねてから私の課題になっていることは、〝分かち合い”なのだが、声にしてみたらどうも独りよがりになっている。「そんなこと言ってもわからないよ」のようなことばを、聞かせていただくたびに知らしめられたのである。そのような自分に値遇(であ)わせてもらえたのは、大きな大きな収穫になった。甘えていたと、そっといってみたが、しっくりこない。私が特定の誰かに甘えていたのではなさそう。甘えになっていたのだ。私のあずかり知らないところで。この身が甘えになっていたのだといってみられたら、甘えにならせていただけて落ち着けたではないか。どうやら、いのちは浄化され、いのちの元旦に迎えられた。ともどもに救われあえる「分かち合い」に優る慶びはない。分かち合い(自利利他)の道には、ともどもにいのちがかけられていた。これまでもこれからも、現にいま・・・・・・・