新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

人間(ひと)は、プロセス(課程)に生かされて在る。

2013-05-30 09:53:07 | 私の声
 「生活が最良の状態にあるときは、流動的で変動し続けるプロセスであり、固定したものは何も存在しない。」(ロジャーズ「私を語る」)
 だとすると、「あの人は、以前~と言っていたのに」とか「言うことがコロコロ
変わって、あの人は信用できない」等など、聞いたり言ったり心当たるのではありませんか。「固定」したがっている、「固定」になっている自分の在りようの証しでありましょう。自覚のないままに。「信用」がチャチに使われているようだ。「ことば」は、怒っている。「信用」が哀しんでいる。「ことば」に鈍感になったまま、そこに居座り続けられていた自分に、気付かせてもらうには、カウンセリングに学ばせていただくしか道はない。

「他人という島へ橋をかける」体験

2013-05-25 08:54:36 | 私の声
 人はみな、非常に現実的な意味で、それぞれ自分自身という島のようなものです。人はまず自分自身になることを喜び、また自分自身であることを許されるような条件におかれて、はじめて他人という島へ橋をかけることができるのです。(ロジャーズ「私を語る」)
 1 「自分自身という島のようなもの」という事実に、値遇(であ)う学び
 2 「自分自身になる」に、値遇う学び
 3 「他人という島へ橋をかける」に、値遇う学び
 を、あなた自身体得したくありませんか。これまで、おそらく感じられたことがない歓びを、味わえること間違いなし。生活が・人生観が変われます。この学びの体験は、あなた一人ではできません。この学びの体験をさせてもらえる場として、カウンセリング研修会が用意されています。知っているだけでは、役に立ちません。体得にならないと。

学びにまさる歓びは無し

2013-05-20 09:26:16 | 私の声
 「学びにまさる歓びは無し」と言えるようになったのは、「カウンセリング」に値遇(であ)えて、学びを重ねるにつれての想いです。当然のことを言っているまでですが。学べずにして味わえるものではないのですから。この「学び」とは、一般に行われているような、物知りになるようなものでもなければ、受け身になったままその場に居さえすれば済んでいるようなものでもない。能動的に、生身のこの心身に真に役立つダイナミックなものであるものを指しております。「自分自身の見えよう、思いよう、考えようこそ究極の問題」にならせていただいている私です。この学びをさせていただくには、語れる、聞いていただくもう一人の独りの人間(ひと)が、絶対に必要なのです。学び合い(分かち合い)こそは、誰しも望んでいるものでありましょう。自覚は後から誕生するもの・・・・・・・。カウンセリング研修センターは、その学びになれるように用意させていただいた場なのです。

人は、生きているまんま・死んでしまっている

2013-05-04 07:56:01 | 私の声
 確かに物を食べ、息をし、手足は動いているのだから、細胞は生きている。しかし、心身は満足にはなっていないから、呼吸のしづらさ・手足の動きづらさは感じられているはず。あなたの体の声に聞かせていただければ、きっとあなたに聞こえるはず・・・・・。細胞そのものは、物・肉眼で見える次元のもので維持はできても、心身(いのち)はよりよく生かされたがっているのです。よきことば(学び)を欲しているのです。自分自身に自覚される以前に。“non-directive-counselingとは、より真なるものを求め求めて止まない過程の象徴でしょうか”と、友田不二男氏のことばとして、先週投稿させていただきました。常に常に、いのちは刻々変化(へんげ)し続けられているのですが・・・・・。知らずに固定し、固まってしまっている。固定したがる。学びなきところに、心身は窒息してしまうのです。その人の自覚になっていかないからです。その学びとは、これまで「私の声」にいろいろなことばにして、伝えさせていただいてきました。自分自身の在りように疑いをもてたり、不安定になっているさまが感じとれる人は、学べて行ける人です。きっかけになれたらね。真の学びのためのお手伝いの扉を常に開いております。