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新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

私がしないで誰がする

2025-04-08 11:18:11 | 私の声
ユキヤナギ、さんしゅうゆ、侘助、あしび、レンギョウ、桜
我が家の庭の春を彩っている。
今朝、ふと見上げると"山桜"が密かに、控え目な気品のある美しさをはなっていたではないか。
本居宣長は、山桜をどの桜も比較にならないと愛でていたと知り、我が家の庭の中心に植えたもの。

ところで、過日"月刊にいがた"の、新潟のスペシャリスト として取材を受けた。
本誌が目にとまり、当新潟カウンセリング研修センターを訪ねてきている方々はいる。
「カウンセリング」と名称は同じだが、"質”は全く異なる。
訪ねる者は選べない、また、どこも同じと思っている故に、距離や料金などで決めている。
なかには、より深く学べる所を求め、私のブログ「私の声」を読んで決めた。等など聞かせていただいている。
先日は静岡で、今週は新潟で、来週は東京で、育まれ合いに。
「より真なるものを求め求めてやまない過程の象徴でしょうか。」は、友田不二男氏のことば
「十分に機能する人間」ロジャーズのことば
「自在」東洋思想のことば
上記のことばは、人間の成長の在りようでありカウンセリングに託されているこころ、を表している。と同時に、教育の目ざしているところで在るが、学校教育は地に落ちたままだ。
教育の「質」を置き去りにしていては、税金の浪費であり、教師の多忙問題も的外れと言いたい。不登校、いじめ、自殺、精神疾患等など増加の一途をたどっているのと、教師1人独りの責任が全く他人ごとになっている。
人類が滅んで往くとロジャーズ氏。
社会的責任を背景に、今学校教育について私のエネルギーを注いでいる。



[がまん」

2025-03-22 11:49:45 | 私の声
日常、最も聞くことばに「がまん」がある。
それゆえに、言ったり聞いたりしている人には、当たり前のようになっている。
「がまん」と言っている方々に、改めて尋ねさせていただいた。
共通しているところは、他者と関係していても自分の思いや感じは、飲み込んできている。
自分の声にすることを避け、内面にため込まれて他者と関わる体験が少ない。
他者との関わりを避け、硬直的な人格になっている。
思考が狭くなり、感性が養われず社会生活がままならない。
自分は、そのような傾向があると思い当たるなら、☎なりパソコンで新潟カウンセリング研修センター「つなぐ」で予約ができます。
考えていては、始まらない。
行動が先!

そっと、声にしてみませんか

2025-02-13 07:56:15 | 私の声
イライラ・不安・モヤモヤ・不快感を、そおっと声にしてみませんか。
じゃまもの扱いして、しまっていませんか。
新しいあなたに、であえるチャンスに!
我慢したり、無いものにしていると、心身が病的になっていくのです。
声にして自己肯定感が高まり、健康的になるお手伝いさせていただいております。

カウンセリング研修会へのご案内

2025-01-23 12:26:57 | 私の声
昨年の11月に開催した「カニの宿・きんぱち」で、4/12(土)~14(月)に宿泊研修会を開催する。
ご案内を発送し、希望者の受付が始まっている。
参集する方、計画した者共々にお会いするときが、楽しみになっている。
次回の再開の日を約束して、お別れをした。
年間を通して通ってきて学び続けているが、寝食をともにした宿泊研修会は前者を優る。
個室を選ぶもよし、大部屋を選ぶもよし。
海の幸を味わい、日本海に沈む夕日を眺め、温泉で寛ぎ、ことばの世界によちよち歩き回る絆。
休憩時間には、良寛記念館や五合庵、魚のアメ横など希望に応えて案内させていただく。
性別、年齢、職業、動機、全く初めてのかた、どなたにも開かれている。
必要の無い方は、存在しないのだが、試みようとするかどうかだけ。
試みられる人は、学べる人。
先延ばしせずに、この機会に、どうぞ!
問い合わせ先☎ 025-230-5320

教員の多忙問題を、政治で解消しようとしているが

2025-01-22 09:02:26 | 私の声
経済が伴うことに関連してくる故、政治に任せ教員はしてくれるものと思っているようだ。
年中、教員はしなければならない、するものだ、頑張らなきゃ、どうしたらいいか、忙しい忙しい等など、終始している。
彼らは、「やっているはずなのに空っぽ」と言っている。
マスコミが報じる度に、教員の「精神疾患で休職者」児童生徒の「いじめ」「不登校」「いじめ」「自殺」等など過去最多と。そして、その解説は、相変わらず的外れなのだ。減る訳がない。いい加減さに、あきれるし憤りを覚える。
物で言えば、どんどん製造しているにほかならない。
教員ひとりひとりは、課題があっても「忙しい」を理由に取り組もうとしない。課題を置き去りにして、授業をしている現状だ。教員をしているのではなく、教員になるように・教育をするのではなく、教育になるようにならないと、人類は崩壊だ。
多忙は他者が招いたものではない。ことほど作用に、無責任教員によるもの。
大事なものが見極められなければ、やることしかできないのである。
根本的には、教育の本質を極めた人に学び、教員が真に人間になるよう、育てなければならない。
多忙の真相を、次回の教員の集いにお話させていただく。