新潟カウンセリング研修センター

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「分かち合い」 になるとき

2013-12-17 09:42:20 | 私の声
 「分かち合い」にまさるものはない。「分かち合い」は、誰しも望んでいるものであろう。しかし、体解できた私には言えるが、体解できていない者には言えまい。果物やお菓子を分け合って、食すことは容易に思い描けても、精神の面は肉眼に見えないものだから。いのちは、「分かち合い」に望まれている、と言ったらよりピッタリする。「聞く」「言う」「する」「見る」に終始している人には、「分かち合い」は訪れないのである。「私が」の世界に専らだからだ。そこでは、自分も他者も尊重にならせてはいただけていないのだから。個人と個人のケンカ・言い合いや、国家間の戦争が、物語っている。改められないのは、「聞かせていただけなさ」の証であろう。「私が聞く」「聞かせていただけた私」では、両者の世界は天地の違いなのだ。「聞かせていただけた私」と「聞かせていただけた私」の関係に、分かち合いが自ずと生じているのだ。「私が」が超えられて・・・一人では絶対にいただけない「分かち合い」である。