「代償可能という発想は日本中に広がっている。」である。柳田邦男さん(作家)と中島岳志さん(政治学者)との新春対談「試練から希望を」のなかのことば。「代償可能」になっているありように、違和感・危機感にならないことに、危機感を感じないではおれない。かけがえのなさが忘れ去られ、そのことに頓着しないでいたら、人間として救われようがないではないか。自分だけを大事にするということは、成り立たないし、現に成り立っていない。もう一人の独りの人間(ひと)が大事になるために、自分自身が大事になることから始めなければならないのだ。自分自身が大事になれて、初めてもう一人の独りの人間が大事になれるのだから。違和感・危機感こそが、今私たち一人一人に求められていると言わないではおれない。違和感・危機感こそが救われていく学びの道へのきっかけになる。原発に危機感を感じて都知事選に出馬している方のことばには、希望・迫力・真剣さ・説得力がある。
どこに、あるんでしょうねえ。児童・生徒の自殺が発生するたびに、いじめの有無が浮上している。ある関係の状況を捉えて、名付けているようではあるが。日本学校教育相談学会においても、「いじめ問題の予防と解決を考える」として、研修会が開催された。これまでの教育の姿勢を顧みて、今後に生かそうとして。「いじめ防止対策推進法」も成立したことからも、にわかに取り上げられている傾向も。
「青を知りて青さを見ないものは、青の実体に執えられて青さの実相を知らないものといわねばならぬのであろう。」(金子大栄著・光輪鈔)よ~く、聞けよ、聞かせていただくんだよ、と頻りに教えられる。いじめは「青」に表されている。いじめに執えられていて、執えられているわが身を置き去りにしていたのでは、「青さ」が依然と聞こえてはこまい。わが身のありように向き合えないところでは、空回りになるしかないのである。わが身のところを、わが身のところとして、語り会えたらねえ。教師も保護者もクライエントになり、自身が解放される学びなくして、児童・生徒の役立ちには程遠いといわねばならぬのであろう。
「青を知りて青さを見ないものは、青の実体に執えられて青さの実相を知らないものといわねばならぬのであろう。」(金子大栄著・光輪鈔)よ~く、聞けよ、聞かせていただくんだよ、と頻りに教えられる。いじめは「青」に表されている。いじめに執えられていて、執えられているわが身を置き去りにしていたのでは、「青さ」が依然と聞こえてはこまい。わが身のありように向き合えないところでは、空回りになるしかないのである。わが身のところを、わが身のところとして、語り会えたらねえ。教師も保護者もクライエントになり、自身が解放される学びなくして、児童・生徒の役立ちには程遠いといわねばならぬのであろう。
今日16日のお月様の姿は、お月様のカレンダーによると「望」と記されている。冬期間はなかなか見上げる空に、雲に遮られお月様の姿が見えない。さいわい、学びあいの友にいただいたお月様カレンダーが手元にあって有難い。年が改まった最初の満月の日を、小正月と名付けられたとのこと。1月15日前後が小正月になる。地域に根差した行事が報道され、どこかほのぼのとさせられるようなものが多い。江戸時代まで月歴で人々は農耕生活を営み、太陽暦の現代は工業化に。過日、日本学校教育相談学会に参会の折り、児童精神医学のなかで、私の関心が向いた点に、月の周期・太陽の周期と心身の関係だった。太陽暦になり工業化が進んだ現代に、精神を患う人間が増加してきている。食生活や冷暖房や医学などなど工業化の恩恵により、寿命は延びてきている。しかし1日25時間の周期と農耕生活は、人間の心身に無理がないのであろう。知識に基づき、観念で間に合ってしまえる世界に比して、経験が活かせるアナログ的だった農耕生活は、現に生きているという実感が得られる。効率は悪くとも、喜びも苦しみも吾ものになり味わえるところに、人間の精神の所以あり。
「親鸞」というチラシが、今朝の新聞とともに配られてきた。親鸞聖人750回忌の講演会の案内に、私に語り掛けているように記載されていたことばである。ふと、師に聞かせていただいたことばが思い出された。「出世本願」だ。この世に生まれてきた本当の願いは・・・私がこうなりたい・こうなりたくないという意図を超越された、すでに願われていた大いなる願い と、了解している。大安心にならせていただけるところである。私がなりたいようになれば、嬉しかったり楽しかったりはするが、どこか満足しきれなさに教えられる。目的のために生まれてきた人はいるであろうか。「太初にことばありき」が事実。五木寛之 作「親鸞・しんらん」が購読の新聞に連載されている。唯円との、息子善鸞との対話に関心を寄せて読ませていただいているところだ。「おめさま、何しにこの世に来なさったかね。」に、真に直面され続けられた生かされざまだった生身の人間(ひと)だったと言えている「今・ここ」私。今・まさに、ことばの相(すがた)になってこの世にきてくださり、私にならせていただけている。
今朝のこども新聞に、「小正月」と名づけられたいわれや、地域に根ざした特有の行事が紹介されていた。怠け癖をこらしめる古くからの行事に、ある地域で「アマメハギ」というものが、行われているようだ。アマメとは、仕事をせず長々と囲炉裏に当たってて皮膚にできる赤い斑点のことで、ハギとは取り除く・こらしめるの意とのこと。初めて耳にしたことばだったが、説明にあるような点には「なるほど、あのような・・・」と昔目にした情景が思い出された。ただし、怠け癖と私には見えていない。長々囲炉裏に当たって皮膚に赤い斑点のできていた、その人間(ひと)に決して怠け癖ということばはきていなかったに違いないのだ。
「怠け心・怠け癖」って、どこにいるんでしょうねえ。あたかも、いるかのように言ったり聞いたりしていますねえ。
「怠け心・怠け癖」って、どこにいるんでしょうねえ。あたかも、いるかのように言ったり聞いたりしていますねえ。