新潟カウンセリング研修センター

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学校での教育が救われていけるか?

2016-12-31 08:24:02 | 私の声
 現在の学校でなされている教育を教師自身の目に、どう見えているのか。事がマスコミで表面化するたびに、第三者による原因究明に注意が向き、二度と起こさないと言い頭を下げる。どこまで繰り返えすと言うのか。疑いの心が起こらないのか。闇の深さに目が向いていない証と観ている。毎年新潟カウンセリング研修センター主催で、県内において3泊4日の研修会を開催して久しい。開催の当初は、県内の校長をはじめ教師の参加がみられたが、今はいない。一人でも参加していた頃には、かすかな望みをかけていたのだが。学校と言う場に身を置いていた私の知る限りでは、教師自身が時間をつくり、自費で研修を積む人は、まれである。役割として命令を受け、出張費と時間が確保されて出かけていく形が当たり前になっている。受け身からは、真の教育は生まれないのは当然だ。教育に携わっている教師自身、自身の在りようを疑うことができているのか。はなはだ疑問だ。見ているままに声にして語るところから、救われていく外はないのである。いくら一人で考えても、先は開かれていかない。危機感が感じられている方、思い立ちはことを成就する・・・今が学びの始まるとき。カウンセリング学習の場は、あなたの思い立ちに応えさせていただくところである。学べない教師からは、児童・生徒は育まれてはいかない。025-230-5320(新潟カウンセリング研修センターへ)

❝ここ❞ に気付けたら・・・

2016-12-22 07:31:34 | 私の声
一言口を開きことばを発すると、もう一人の人との関係が具体的に起こる。「あ」と声になった私のことばに、「う」と言われても!と、相手の方から ことばが返ってくる。このような会話を日常的に直面する。「あ、ね。」「そう、ね。」「そう、なのね。」と、相手の方から返ってくることは、日常ほとんどない。そのようなことばを聞いた瞬間、この身が許せないとでも言っているような衝撃が生じる。どんなにか・どんなにか、聞いてほしがっていたか。私のことばのままに。ときには、特別な関係において、私の発したことばのままに、「あ、ね」「そう、ね」と声が届けられてくる。その時の安心を体験しているからこそだ。日常の人と人との関係が、まざまざと見えているから居た堪れない。❝ここ❞と言っているのは、自分(教師・保護者)のことばで・自分(教師・保護者)の意味で・自分(教師・保護者)の解釈で聞いている自分に気付けたら、と!!!尊重し合える関係だ。真のいじめ対策だ。児童・生徒の死を通じて、目覚めよ!この事実に向き合えなくて、二度となくすと言うのはもうよしませんか。言っていることと、やっていることの事実が見える学びですよ。全く欠落しているのです。この学びは一人ではできません。一人で考えてもなりません。 

「ことばは関係を変える」はたらきを宿している

2016-12-16 07:56:22 | 私の声
 「私が聞いた」「私に聞えた」「私に聞かせていただいた」と言うことばは、現代人に欠落していると、言わざるを得ない。これらのことばを例え知っていても、聞いたことがあったとしても、自分の声にならない人には、人生のために全くならない。連日殺伐とした出来事を聞くにつけ、苦しみに振り回されている人々のいる現実が、そのことを物語っている。日常、家族をはじめ職場であれ、そこで交わされていることばは、その場の用が足りれば捨て去られていっている。自分のその時々の目的を実現すれば、お終いになっている世界にどっぷりと生きているから、ことばの本質を知らないのだ。ことばを言う・自分の声にするそのことに、実は価値があるという学習になった体験が欠落しているのである。学校教育がその典型である。子供たちがどんなにかどんなにか、成長が妨げられいじめで苦しみ・苦しめられていることか。殺してしまってから原因究明だなんて、情けない。二度と起こさない、と謝罪すれば防げると思っているようだが、教師よ・保護者よ、自らの内面に向かい合い、今すぐクライエントになって自分を声にして、カウンセラーに聞いていただき、事実が自分に見えてくる目・子どものことばが聞こえてくる耳になれるように、学びを始める他に救う手はない。学びの場はいつだって用意されているのですよ。

言った・言われた で、どうなっているか

2016-12-13 08:28:55 | 私の声
 「あの人が言った」「あの人に言われた」は日常生活に満ち満ちている。それで、どんなにお互いが苦しみあい、そして悲劇が引き起こされていることか。対立・言い合い・けんか・通じ合えない・空虚・疲労・イライラ・消耗・沈黙・殺し合い・・・現実の生活・人間関係の在りようだ。この事実に気が付けないまま、ほとんどの人達が一生を終えている。この事実に気が付かせていただけたのが、カウンセリングとの出会いだった。カウンセリングとの出会いがなかったら、おそらく私の人生はネガティブなものになっていたに違いない。一口にカウンセリングとの出会いと言っても、ひとえに人にかかっている。師と言える稀有なその人(カウンセリング)との出会いに、私の人生が・世界が変わった。私の世界の深さと広がりは、その人のカウンセリングに学ばせていただけてこそのできごとである。そのきっかけは、不登校の生徒への対応に困ってだったが、学びを重ねていくにつれて、そのダイナミックな世界が見えてきて、驚きとともに人間の考える世界のなんとチャチなことかを思い知らされたのである。学びあいませんか。満たされないと感じられている方へ。問い合わせ先 ☎025-230-5320(新潟カウンセリング研修センターへ)

いのち(心身)が大事になる対応とは

2016-12-10 14:02:13 | 私の声
 いのちを大事にするには、どうしたらいいのか と自身の外に原因を探し、原因を排除して対応を決める、とする志向のパターンをやっている限りは、これらの悲劇は繰り返すのが当たり前。連日報道されているような、児童・生徒のいじめ・自殺・他殺をはじめ種々の不健康な行為や状態に、不思議はない。問題はその思考のパターンに、なんの疑いをもたずに、いることだ。疑えない程に、教育を司っている者の根深さがある。対応うに困れないでいる人間のありようにあると、言わざるを得ない。教師は真に困れない人間になってしまっている。真に困れれば救われようもあるのだが。すでに、その道は用意されているのだから。自身に向かい合おうとしないところでは、他人事にすぎない。教師自身の救われていけないところで、なんで児童・生徒が救われようか。真に児童・生徒を救いたいのであれば、教師あなた自身が救われるほかはない。今から自己が顕かになる学びに取り掛かるならば、そのお手伝いをさせていただきたい。☎025-230-5320(新潟カウンセリング研修センターへ)