新潟カウンセリング研修センター

研修・講座のお知らせを掲載

「人間性を深め合う」研修会のお知らせ

2014-02-28 07:49:02 | 私の声
 来る3月21日の13時~23日14時まで、新潟カウンセリング研修センターにおいて、研修会を開催いたします。動機・年齢・職業・性別など一切問いません。どなたも気軽に参会できます。カウンセリングに関心のある方・お子さんの育児に戸惑っている方・教育に生かしたい方・職場や家庭生活に悩みを抱えて自分自身を変えたいと思っている方など、どなたにもためになる学びになります。詳細を知りたい場合は、電話025-230-5320へお申し付けください。
 自分自身が深められ、同時にお互いに思いやれる人間(ひと)になれる学びほど、価値の高いものはない。いつの世にも求められているのでしょう。しかし、日常の生活にのみ明け暮れて、ついおろそかに・・・特に、最近は・・・思い切って足を運ぶことから始まれるのです。あなたがあなたを生かせる道が・・・

「あなたは何故学問しているのか」と問われれば

2014-02-27 07:07:51 | 私の声
 救われるためと。言い換えれば、私が私になるために・ことばに値遇(であ)わせていただけるために、と今は言える。何に学ばせていただき続けられてきたか・いるかと言えば、「カウンセリング」と「仏法」である。カウンセリングによって仏法が・仏法はカウンセリングによって、深まり合ってきた。両者は、人間(ひと)のありようの隅々にいきわたり、外れようがないと、思い知らされた。その昔、雲をもつかむような心境で、研修会の場に足を運び、その場にいることだった。次第次第に毛穴から身についていたんだと、言える今である。カウンセリングの・仏法の奥深さに感動せずにおれない。カウンセリング・仏法は生活・生活はことば。カウンセリングと仏法に対して、観念や偏見や知識のようなもので勝手にとらえていたときには、役に立ちやしなかった。言ってみれば、不純だったのである。とことん学ばせていただけた師との出会いがなかったら、このように言える私はいない。友田不二男氏のことばを借りれば、「より真なるものを求め求めてやまない過程の象徴」にならせていただいている「私」

「~とは 思っています」「~かなあ と思います」などと

2014-02-26 07:29:10 | 私の声
 最近、気になっている表明の相(すがた)である。昨日もテレビのインタビューで、「~よかったかなあ と思います」「~印象に遺ったかなあ と思っています」「~したいとは 思っています」「あくまでも 夢では ありますけれども」等などと。自分をどこか曖昧にしたがる傾向が蔓延してきているようだ。自分を顕かにすることの怖さが、無意識的に用(はたら)いているとみる。自分をごまかしてみて、自分のなんのためになっているのだろうか。ことばは、自分の「今・ここ」にならせていただくためにあるとするならば、「~かなあ」「~とは}に、聞かせていただく他に手はない。そうすれば、おのずと聞こえてくる。自分の、なっている「今・ここ」が。「今・ここ」に値遇(であ)わせていただきたがっているんだよ。ことばはね。ことばに顕かにさせていただけてこそ、人間は深まり薫習(くんじゅう)にならせていただけるのだ。ことばは、嘆いているだろう。言い捨てられてばかりでは・・・・・・・。

受容になり辛いことば・決定(けつじょう)になったことば

2014-02-25 12:48:30 | 私の声
 オリンピックの競技に出場し、メダルをねらっていたある選手が、競技後にインタビューに応じていた。初日は「『恐怖心』を感じて『しまって』、体が思うように動かなかった」と、翌日「『やるしかない』と思って臨んだら、これまで練習してきたものを発揮でき、最高の演技ができた」と。どうやら、人間(ひと)は恐怖心ということばを、拒みたがるようだ。自分はこういう目に遭うわけはない、と目の前のことで考えるから、身・心のちぐはぐがおこるのだ。恐怖にも人間はなるようにできていたのだ。気に入った感情だけあればいいと、無意識的に思っているようだが、そのようにできてはいないのだと思い知ることだ。そのありように至れない相を、「煩悩」と表せる。肉眼では見えない世界があるんだよ、と恐怖心が教えてくださっているのではなかろうか。「しまって」ということばで、受容になれなくなるようだ。「しまって」の用(はたら)きである。

「あの人なにしに来たの?」と

2014-02-24 09:42:50 | 私の声
 明らかに病状が進行して、正常な細胞がどんどん侵されていっているように感じられる方が、終日付き添っている夫と思える人に言っていることばが聞こえてきた。たった今、おしゃべりして立ち去った60~70歳代の女性のことを、ベッドに横たわったまま消え入りそうな弱弱しい声で、「あの人なにしに来たの?」と。「奇跡はあるんだからね」と、最後に言い放つようにして姿を消したのだが、そうするのが精一杯だったんだろう。私には、そのように想えた。いわゆる、「お見舞い」に病室を訪ねられたのであろう。ただし、訪ねたその人に聞かせていただかずに、勝手に想えた私のところであるが。仮に、「お見舞い」と名付けるとして、「お見舞いに『なる』」が求められている。見舞われる側・見舞う側双方にであろう。片方のみに成り立つようには、なっていないからである。ともどもに救われる道・「分かち合い」に関心があり、探させていただいている「私」。