新潟カウンセリング研修センター

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私に欲しがっていたもの

2014-08-26 09:07:06 | 私の声
 「お前自身の不信によるもの」ということばだったようだ。このことばに、値遇(であ)えれば値遇えるほどに、私はより私として私させていただき、その方はその方としてその方させていただける道だったのだから。ややもすると、「私自身の不信によっている」ということばを見失い、「不信」が忍び寄り、この私を乗っ取り、混乱にならせていただける「不信」である。救われたがっているこの身にとって、細胞の一つ一つに沁みこませておきたいことばである。「私のことば」「その方のことば」が分けられていないならば、私自身は不信の虜になり不信に陥っているときといえよう。「私のことば」「その方のことば」という厳然たる事実がないがしろになっている自分に、気づかせていただけよ!  呼びかけられている今である。「その人間(ひと)のことば」に腹が据われれば据われるほどに、おのずとともどもに救われずにはおれない道であるからして。

「平和への誓いを新たにする日」 と・・・

2014-08-16 07:44:34 | 私の声
 八月に入ってからは、〝平和”〝戦争”ということばとそれに関する記事を、新聞やテレビを通して聞いたり見たりする機会が多い。聞いたり見たりするたびに、落着けないのである。なにか表面的に聞こえて虚しさが感じられる。ただ単に〝言っている‴だけに聞こえて。ことばを換えれば、言っていることがその人間(ひと)に超えられてこそ、深まり広まりて真に自身のためになるのだから。深まり広まったことばは、他者に役立たないはずがないの確信である。ことばとは裏腹に、人と人の関係が望ましくない方向に、向かっているではないか。現に兵器を作ることに知恵と費用を費やし、戦争があちらこちらで起き、止むことを知らないではないか。他国が攻撃してきたらと、そのときの準備をしている。そうじゃなくて、ともどもに平和になる手立てに関心が向けられたならば、もう関係が和み平らに。深まり広まりになる手立ては・・・なによりも、救われていない自身が、自身に感じられるかであろう。そうでなければ、ことばだけが自身の外で空転するしかない。どこまでもどこまでもだ。
 歎異抄のなかに、〝万事は皆なそらごと、たわごとで、まことがない”と。学びなき者には、真の平和を知らしむることはできないのである。どの人間(ひと)もどの人間も、どの国もどの国も、必ず平和になれる道は、すでに用意されているのだから。肉眼には見えなくても、あるんだよ。真に学べてこそ、平和の尊さとその手だてが得られるのだと。

真実には あやうさが・・・

2014-08-01 09:20:54 | 私の声
 過日、ある場で「真実にはあやうさが・・・」のことばが、この心耳に聞こえてきた。聞こえてきた、というこの事実は不可思議に彩られているできごとだといえよう。私が聞こうとしたところでは、おそらく聞こえてきゃしなかったであろうから。日常何気なく交わし合っていることば(日常語)のところでは、実にいい加減なもんだ。聞かせていただく世界なき、言い合い・聞き合いをやっているに終始あるのみ。「真に救われないなあ」「落ち着けないなあ」のことばが自身に届けられてきたならば、そのことばがこの身に沁みたならば、そのことばに吾が身が尽くされたならば、救われる機になるであろうに。救われたような気になっていたり、救われたいと探していたり、救われたと思ってみたり・・・。そのことばの相(すがた)が、そのことばの相(すがた)として、吾が身に聞こえ聞かせていただく他に、そのことば(真実)に値遇(であ)わせていただける道なしの実感である。