新潟カウンセリング研修センター

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新聞紙面〝文化の記憶”に想う

2014-05-21 08:27:23 | 私の声
 新聞の紙面の〝文化の記憶”の記事に目が止まった。以前に訪ねた〝日本画家・小林古径”の誕生の地の風景や風土と共に、画室にたたずむ姿とことばが掲載されていた。「先生は長い間ただじっと物をみつめ、ゆっくり、じっくりと力を込めて線を引かれる。まるで点が続いて線になるかのようで、先生の命が込められていると感じました」と記者のことばだった。「自由は学生の身を縛る。『何をどう描けばいいのか』と不安に駆られた学生が『何で教えてくれないのですか』と問うと、『教えると君の絵でなくなる。困っても自分の絵を描きなさい』と答えた」とのこと。
 「今・ここ」に着地させていただく、他にこの自分はいない。したがって、「今・ここ」にはおのずから、吾いのちがかけられているのだ。「今・ここ」「今・ここ」は、まさに点になり続けられて、時間の経過からみれば線になっているといえる。どうすればいいのかと、行き詰まったり迷ったり悲しみ苦しみしつつ、じっと立ち止まりよ~く聞かせていただき、観させていただき、他者の借り物ではなしの吾人生に置き換えて、味わわせていただけた記事であった。人間(ひと)は本来かりものでは成り立たないようになっていたのだ。
 

意思の疎通

2014-05-19 07:57:18 | 私の声
 食べ物を飲み込むことが困難で発語もなくなって意思の疎通のできない、施設に入っている認知症の母親と、残り少ない時間を自分に何ができるか、口腔衛生が大事と聞いたので、一週間に一回出かけて行って歯を磨いてやったりしている、と聞かせていただいた。それを聞いたある方は、そのように思ってもらえるだけでもお母さんは幸せだと思うわ、と。またある方は、自分は父親に手を握ってあげたと。
 「発語がないので意思の疎通ができない」と聞いて、私に想えた。〝花のことは花に聞け”〝花と語る”だった。花は人間のような声にはできないが、その花に聞かせていただいているではないか、その花と語り合っていたではないかと。朝に夕に私は、庭木の一本一本・草花たちとの関わりに、育まれあっている事実。その花に・そのお母さんにことばが宿されているんだよ・・・・・・・

幸せになれる

2014-05-17 09:25:33 | 私の声
 どの人間(ひと)もどの人間も幸せになれる。簡単なようでもあり実に難しいともいえる。幸せになろうとして、ややもすると他人や環境を換えようとするのではないか。その方法で立ち向かうのでは、真の幸せに値遇(であ)えない。そのような関係は成り立たない。一口に幸せと言っているが、「幸せだなあ」とことばに言えたり、「有り難う」「感謝」だったり、味わい深い生活になったりであろう。これまで、学ばせていただけてきたお陰で、幸せになれる術が身についてきたと言える。幸せにならせていただく道は、唯・聞かせていただく他になし。師に多くの方々にお世話になりながら、次第に自分自身の納得になったのであった。ことばに聞かせていただく・ともどもの分かち合いに優る歓びはなし、の実感である。この自分自身の平和は、世界の平和に通ずること間違いなしの確信である。

どんなときにも救われるようになっているのだが

2014-05-16 07:06:22 | 私の声
 どの人間(ひと)も救われるようになっている。生きとし生きるものすべては、見捨てられていない。だが、自分で自分を見捨ててしまう場合はありそうだ。そこを声にしたらまた、開かれていけるのだが、声にしないまま声を葬ると、どうも救われる道を見失うことになるようだ。
なぜならば、自分で自分を見捨てていることが分からないまま、見捨ててしまうのだから。聞かせてほしい、あなたのことばに。ともどもに分かち合いたい。いのちは分かち合いたがっているのだ。いのちは輝ける・・・・・・・

見捨てない

2014-05-13 13:46:53 | 私の声
 今朝紙面で目に止まったことばに、〝私の好きな愛の説明の一つに「見捨てない」ということがございます”と渡辺和子氏のことばであった。昨日「会って謝らなければと思って・・・」と聞かせてくださった方がいた。「Nさん、救われているのだろうか」ということばが到来してきて、ようやくそのことばに救われていた私になった。どんなときにも、大宇宙の愛に見捨てられないようになっていた証だ。現に今も。