サッカー日誌 / 2011年01月30日


アジアカップ2011テレビ観戦記(6)


ザック用兵の的中で4度目の優勝

決勝 日本 1-0 オーストラリア(延長)
1月29日(土)18時00分(日本時間24時00分)


◇後半11分の交代と配置換え
 アジアカップ2011カタールの決勝戦。日本はオーストラリアとの激闘を制して4度目の優勝を飾った。
 勝利を導いた要因は、いろいろある。チームの士気の高さ、GK川島永嗣の奮闘、オーストラリアの再三の逸機など…。
 しかし、直接の勝因となったのは、ザッケローニ監督の用兵的中だろう。
 後半11分に右サイドに起用されていた藤本淳吾を引っ込めて、大型ディフェンダーの岩政大樹を出し、同時に守備ラインを組み替えた。岩政はセンターバックに入り、今野泰幸が守備ラインの左に出た。左バックの長友佑都は前へ上がった。
 こういう選手交代に伴う配置の変更は、テレビの画面ではなかなか分からない。しかしNHK-BSの中継では、アナウンサーと解説者がよくフォローしてくれた。

◇長友を前に出したのがポイント
 この用兵には三つの狙いがあると思った。
 第一に、オーストラリアが長身のツートップへの放り込みを、ますます多くしてくると思われるので、身長1㍍87の岩政を守りの中央に入れたのである。
 第二に、今野を左バックに出したのは、4:2:3:1の布陣を変えないためである。ザッケローニ監督は、試合のあとのインタビューで、そう説明していた。
 そして長友を左サイドに上げ、左サイドにいた岡崎慎司を退いた藤本のあとの右に回した。この長友を前に出したことが最大のポイントだった。
 オーストラリアは、長身のキューウェルとケーヒルに合わせる攻撃力がマスコミで強調されていた。しかしテレビの画面で見たところ、実は守りのチームである。守備ラインと中盤プレーヤーで、緊密なブロックを作って侵入を防いでいる。

◇殊勲は長友と川島だ
 固いブロックの守りを崩す方法の一つはドリブルによる切り込みである。しかしドリブルが得意な香川真司は、準決勝の韓国戦で右足小指の骨を痛め、チームを離れている。
 長友は攻め上がって鋭いドリブルで内側に食い込んでチャンスを作る。そこで、長友を前に出して、守りの負担を軽くし、主として攻めで使おうというアイデアである。
 この組み換えで、かなり日本のペースになったが、ゴールは生まれなかった。
 延長前半8分、トップの前田遼一に代えて李忠成を出した。
 延長後半4分に、長友が左から食い込んで低く速いクロスをあげ、逆サイドに詰めてフリーになっていた李がワンタッチのボレーシュートを決めた。
 大会のMVPには本田圭佑が選ばれたが、大会を通しての殊勲は長友、この試合のマン・オブ・ザ・マッチならGK川島だと思う。


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サッカー日誌 / 2011年01月29日


アジアカップ2011テレビ観戦記(5)


PK戦で決勝進出。試合の「勝利」ではない

準決勝 日本 2-2 韓国(延長PK戦)
1月25日(火)16時25分(日本時間22時25分) 


◇マスコミの「はしゃぎ」ようは異常
 準決勝で日本はPK戦で韓国を退けた。オシムが率いた前回は、準決勝でサウジアラビアに敗れ、3位決定戦で韓国と引き分けたが、PK戦で4位となった。今回、決勝に進出したのは、それを上回る結果である、そのことは評価したい。
 しかし、マスコミが「韓国に勝った」と「大はしゃぎ」したのは異常である。読売朝刊のスポーツ面は「日本、5年ぶり宿敵破る」と大見出しだった。
 延長のすえ2対2。PK戦で決勝進出が決まったが、PK戦は次の試合に進むチームを決めるための手段であってサッカーの試合そのものではない。「PK戦に勝った」とは言えるが、試合に関しては韓国と「引き分け」である。前年10月のソウルでの日韓定期戦も0対0の引き分けだったから、ここのところ成績互角、実力互角である。
 PK戦は「運のもの」である。4年前は韓国に運があり、今回は日本に運があった。

◇見事な前半の同点ゴール
 ここでは「韓国に勝てなかった」ことについて考えてみたい。
 前半は日本が中盤を制して優勢だった。23分にPKを取られて韓国に先行されたが、36分に同点に追いついた。左サイドで本田圭佑から長友佑都にパスが出て、長友が内側に食い込んで前田遼一に渡してシュートが決まった。圭佑にボールが渡るまでの中盤のパス、圭佑の巧みなスルーパス、走り出た長友の判断の良さとドリブルのスピード。どれも実に見事だった。最高のゴールだった。そのほかにも、いい形の攻めが何度もあった。
 前半は1対1で終わったが「後半には日本が逆転するだろう」とぼくは見ていた。日本の動きもコンビネーションが韓国を翻弄していたからである。また韓国は、前の試合で延長戦を戦い中2日での準決勝。日本は前の試合は大勝して中3日。後半には、さすがの韓国にも疲れが出るだろう、一方、日本は勢いに乗っている、と見ていたからである。

◇引き分けにされた3つのポイント
 ところが延長に入って日本は逆転しながら守り切れなかった。そのポイントが3つある。
 韓国は後半、かえって動きがよくなった。日本のほうに疲れが目についた。この体力の差の原因は何だったのだろうか。これが一つのポイントである。韓国の趙広来監督は後半20分過ぎに選手交代をして中盤を厚くするとともに攻撃的な布陣に変えていた。一方の日本は延長前半にリードしたあと、トップの前田遼一に変えてディフェンダーの伊野波雅彦を出した。これが日本を守備的にさせたように見えた。この用兵がどう影響したのか。それが2つ目のポイントである。延長後半終わり近くに日本はショートコーナーを繰り返し時間稼ぎをした。これが適切だったかどうか?これが3つ目のポイントである。
 韓国は終了間際に同点にしてPK戦に持ち込んだ。PK戦で韓国は最初の3人が連続して失敗した。珍しい。こんなケースは初めて見た。

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サッカー日誌 / 2011年01月28日


アジアカップ2011テレビ観戦記(4)


劇的な逆転でベスト4へ

準々決勝 日本 3-2 カタール
1月21日(金)16時25分(日本時間22時25分) 

◇日本がリードされている
 アジアカップ準々決勝、日本対カタールの日には、ビバ!サッカー研究会の月例会があった。「ちゃんと調べて日程を組めよ」と自分で自分を叱ったが、どうしようもない。終わってすぐ帰宅すれば、キックオフに間に合うかもしれない時間だが、会のあとで「延長戦」(懇親会)がある。毎回の「延長戦」は盛り上がって楽しく、かつ有益である。主宰者としても出ないわけにはいかない。録画をセットして東中野の会場へ出かけた。
 参加者の半分は「家でテレビを見る」と急いで帰った。半分は延長戦に出た。延長戦に出た連中は、結果を聞かないでおいて翌日に録画を見るつもりである。ぼくも、そのつもりだった。ところが我慢しきれないで、飲み会のさいちゅうにケータイで経過を見た者がいたようだ。「日本がリードされている」という情報が伝わってきた。
 終わって帰宅して、ぼくも我慢しきれなくなって、テレビのスイッチを入れた。

◇相手の地元で執念の勝利
 後半の残り時間20分ほどだった。日本はディフェンダーの吉田麻也が退場になり、1対2とリードされていた。しかし、テレビのスイッチを入れたとたんに、香川真司のゴールで同点に追いつく。そのあと10人になっている日本が懸命に守り、反撃した。中盤の遠藤保仁、長谷部誠が積極的に攻めを策している。緊迫感がテレビの画面から伝わってきた。
 そして、土壇場の後半44分、伊野波雅彦が決勝ゴール。追加時間があったので、さらに5分ほど「はらはらどきどき」したが、日本のベスト4が決まった。
 ぼくは最後の25分間、感動的な逆転勝利を生中継で見ることができたわけだ。
 翌日、録画の映像を最初から見直した。前半はじめはカタールの攻勢。12分にロングボールからウルグアイ出身のセバスチャンの個人技で先制。そのあとは、すばやくパスをつなぐ日本の攻勢。28分に岡崎慎司―香川で1対1の同点。激しい攻防である。

◇ザック用兵の的中
 後半、吉田が1分と16分に警告を受け、退場となる。どちらの警告も、いささか酷なようにテレビでは見えた。吉田の退場のあとのフリーキックから、カタールが再びリード。日本は苦しい立場になる。
 守備ラインの吉田が退場になってので、トップの前田に代えて岩政を入れ、守りを固めながら反撃を狙い、終盤の激闘となった。
 準々決勝が優勝へのヤマ場になるだろうという、ぼくの予想は当たったようだ。これを乗り越えた。準決勝以降の戦いは「勢い」である。
 香川は2ゴールをあげ、決勝点ではアシストして、3ゴール全部に絡んだ。出場停止の内田篤人に代わって起用すされた伊野波が決勝点。サウジアラビア戦の後半から伊野波を出してチームになじませておいたザッケローニ監督の用兵もよかった。


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サッカー日誌 / 2011年01月27日


アジアカップ2011テレビ観戦記(3)


第2列新布陣でサウジに大勝

グループリーグB組 日本 5-0 サウジアラビア
1月17日(木)16時15分(日本時間22時15分) 


◇松井、圭佑負傷で新戦力起用
 アジアカップ日本の第3戦、サウジアラビアとの試合の日に、ぼくの主宰している日本サッカー史研究会の月例会があった。東京・本郷のJFAハウス(日本サッカー協会のビル)で午後9時に終わって、まっすぐ三鷹市の自宅に帰り、テレビのスイッチを入れたら、もう日本の1点目が入っていた。そして、すぐ2点目が入った。どちらも岡崎慎司のゴールである。
 この日は、松井大輔が第2戦で痛めた右太ももの肉離れでチームを離脱して帰国することになり、岡崎が先発していた。前田遼一は3試合連続のワントップだが、第2列の顔ぶれは変わった。左足首捻挫の本田圭佑を休ませ、柏木陽介が新たに起用され、本田にかわってトップ下に入った。香川真司は3試合連続、左サイド先発である。ザッケローニの用兵には「こだわり」と「試み」がミックスされている。

◇ザック監督の「こだわり」と「試み」
 前田のワントップ、香川の左サイドでの先発に、こだわったのは、グループリーグの間にチームをまとめなければならないからだろう。固定したポジションでチームの形を固める狙いがあった。
 一方、負傷者や出場停止が出たのは、新しい戦力を試してみるチャンスになった。そこで、ある程度は固めた布陣のなかに新戦力を組み込んで、機能するかどうかを試みた。
 日本は負けない限り準々決勝進出が決まる立場、サウジアラビアは2連敗で脱落が決定済みである。本来なら実力アジアNo.1を争う東西対決の好カードのはずだったが、サウジアラビアの意外な不振で一方的な展開となった。
 前半19分に左からのクロスに前田が走り込みざまのボレーで3点目。後半26分に前田がヘッドで4点目。35分に岡崎がダメ押しの5点目をあげてハットトリック。
 トップの前田が2点をあげて、ザッケローニ監督の「我慢の起用」にやっとこたえた。

◇大量得点の落とし穴に注意
 サウジアラビアは第1戦に敗れると監督も協会の強化責任者も交代、選手たちは個人的にいいところを見せようという気持ちはあっても、チームとしての「やる気」は低下していた。そのために前のほうの守りの労働量が少なかった。日本は中盤で楽にボールを持つことができ、相手守備ラインの裏側に飛び出す岡崎、前田にいいパスが合った。
 5対0の大差になったのを見て、ちょっと心配にもなった点もある。グループリーグで点を取り過ぎると決勝トーナメントに入って苦しむ例を、これまでに、いくつも見てきているからである。
 好きなように攻めて次の対戦相手に「手の内」をさらし過ぎることもある。ゴールの「甘い思い出」が意識の底に残って、守りの厳しい相手には簡単には通用しないことを忘れる落とし穴もある。「次の準々決勝が優勝へのヤマ場だな」と思った。


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サッカー日誌 / 2011年01月26日


アジアカップ2011テレビ観戦記(2)


GK川島退場、薄氷の勝利

グループリーグB組 日本 2-1 シリア
1月13日(木)19時15分(日本時間 14日午前1時15分)


◇審判に振り回された
 夜、渋谷の事務所に訪ねてきたビバ仲間の一人と会食、いささか飲んで帰宅してテレビのスイッチを入れた。アジアカップ日本第2戦。深夜の生中継である。
 前半35分に日本が長谷部誠のゴールで先制し、試合ぶりから見て「これで大丈夫だな」と思ったら、後半は無茶苦茶になった。試合後に長谷部は「審判に振り回された試合だった」と語ったらしい。ぴったりの表現である。
 後半25分ごろ、シリアがゴール前へパスを通したとき、副審が旗をあげた。主審は両手を振って「オフサイドを認めない」という意思表示をして、プレーを続行させた。副審の旗も主審のジェスチャーも、ばっちり、テレビの画面に映った。
 テレビでは明らかなオフサイドのように見えた。しかし、その後の新聞報道によると、主審はシリアの縦パスがではなく、日本側のバックパスだったと見たらしい。

◇「お返しのPK?」で勝ち越し
 主審がオフサイドを認めなかったのでプレーが続き、ゴールキーパーの川島永嗣が飛び出して防ごうとしたとき相手が倒れた。主審はPKをとり、川島にレッドカードを出した。「得点機会阻止」をとったようだ。日本は10人となり、トップの前田遼一との交代で代わりのゴールキーパーに西川周作を出す。シリアのPKが決まって同点になった。
 この一連の出来事を見て「審判がシリアに買収されているな」と邪推した。オフサイドを認めなかったこと、川島を退場させたこと、どちらも不適切に見えたからである。
 ところが、その5分後、こんどは日本がPKを得て勝ち越した。岡崎慎司が倒された反則だが、これもテレビの画面では「不適切」に見えた。「審判は買収されていたのではなく、下手だったんだ。これはお返しのPKだ」と、また別の邪推をした。酔いが残っていて、変な考えがぼくの頭に浮かんだのだろうか。

◇しのぎながら先を見るザック用兵
 テレビはすべての場面を映し出しているわけではなく、審判はスロービデオを見て判定しているわけではない。だから、78歳のぼくが老眼あるいは酔眼でテレビの画面を見て、あらぬことを想像するのは適切でない。しかし、結果としては「日本の勝利は順当だ」
と思った。
 ザッケローニ監督の用兵で興味深いことが、いくつかあった。その一つは、香川真司を初戦の前半と同じように2列目の左サイドに置いて先発したことである。初戦の後半、香川を左サイドからトップ下に移して、攻撃がうまく回転し始めたように見えたので、第2戦では、香川はトップ下の先発だろうと推測していたのだが、そうではなかった。関連して岡崎先発を予想していたが、初戦と同じく前田先発だった。
 目先の試合の勝利のためにしのぎながらも、先を考えた用兵をしているのだろう。

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サッカー日誌 / 2011年01月25日


アジアカップ2011テレビ観戦記(1)


初戦の苦戦は悪くない

グループリーグB組 日本 1-1 ヨルダン
1月9日(日)16時15分(日本時間 22時15分)

◇戦いながらチーム作り
 アジアカップ取材にカタールに行くつもりで準備していたが、断念して日本でテレビ観戦することにした。1月は前半に高校選手権、後半に自分が主宰している2つの研究会の月例会があるので、日程のやりくりがつかなくなったからである。
 今回のアジアカップは、日本にとっては初戦がカギだと思っていた。日本チームは、まとまって準備する期間がほとんどない。香川真司のように欧州で活躍しているプレーヤーは、時差や体調の点で、シーズンオフに入っている日本のプレーヤーと感覚が違うだろう。
 選手同士のコンビも十分ではないだろう。だからザッケローニ監督は、グループリーグの3試合をしのぎながらチームをまとめていかなくてはならない。
 したがって、初戦はチームがもっとも悪い状態で迎えることになる。苦戦は免れないし、悪い負け方をすると、立て直しが利かなくなるおそれがある。

◇守りも逆襲もよかったヨルダン
 ヨルダンが守りを固めてくることは誰もが予想していたが、守り方がいいのは予想以上だった。下がって守っているが、横一線の守備ラインはきちんと保ち、中盤の寄せとコンパクトに連携してスペースを与えない。オフサイドも巧みにとる。ゴールキーパーのシャフィーは、パンチングに逃れるときと前へ出て押さえるときとの判断が明確で思い切りがよく、何度も難しい攻めを防いだ。日本は圧倒的に攻め続けたのだが、崩せなかった。
 そして、前半終了間際にヨルダンが1点をとる。中盤のフリーキックからで、右サイドに出たボールをアメール・ディーブが巧みにさばき、日本の守りを引き付けておいて、走り出たアブデルファタハにトリッキーなパスを渡した。そのシュートがディフェンダーの足先に当たってコースが変わったのは好運(日本にとって不運)だったが、押されながらもチャンスには畳み込んで、すばやく攻めるのは、日本にない良さである。

◇香川もチームも上向きに
 堅い守りを攻め崩せないのは、以前からの日本チームの欠点だが、この試合では、本田圭佑と香川の呼吸が合わなかったこともあるし、香川の体調がいま一つでパスもシュートも鋭さが欠けていたこともある。
 でも、香川は相手ゴールキーパーの好守に阻まれたシュートを放ち、後半、岡崎慎司が交代出場したあと、左サイドからトップ下に移っていい攻め込みを見せたりした。
 あやうく負けになる試合だったが、後半、アディショナルタイム(追加時間)に入ってから、コーナーキックのチャンスを生かして、吉田麻也のヘディングで同点。
 苦戦だったが、90分余りの間にチームの状態は上向きに向かい、最後は勝ち点1をとったのだから、まあ、良かった。こういう大会で初戦に楽に勝ったチームは優勝できない。論理的な根拠はないが、ぼくの長年の記憶によるとそうである。引き分けは悪くない。



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サッカー日誌 / 2011年01月24日


「育成」について考える


ゲームに即した練習が必要だ

ビバ!サッカー研究会1月例会
(1月21日・東中野テラハウス))

◇「町のコーチ」の欧州視察
 ビバ!サッカー研究会の1月例会は「育成」をテーマに、会員の高田敏志さんの報告を聞いた。
 高田さんは東京の町田市で主として小学生の指導をしている。日本サッカー協会やJリーグのような大きな組織の指導者ではない。学校の先生でもない。「町のクラブ」のコーチである。
 その高田さんが、欧州のクラブを見に行ったり、日本に来た欧州の指導者から聞いたりした「育成」についての事例を、自分の現場での指導の経験に照らして話してもらった。
 高田さんは2008年8月に、ビバ!サッカーが主催した「クラマーさんへの感謝の旅」に参加してドイツのサッカー事情を見てきた。2010年3月にはスポーツ指導者支援協会の「イタリア指導者研修2010」のツアーに参加した。どちらも得るところが多かったようだ。

◇試合場面を想定した練習
 協会やJリーグの指導者は外国の施設や指導ぶりを見ても「こんな施設は日本にもある」「あんな練習はうちでもやっている」と、あまり驚かない。日本でも、トップレベルでは施設がよくなり、指導法についての知識も豊富になってきたからである。
 しかし、「町のコーチ」は、いつも練習場さがしに苦労し、子どもたちの指導法に現場で悩んでいる。だから外国でやっていることのなかから、自分たちに役立つものをみつけたいと、目を大きく開き、耳をそばだてている。そういう人の考えを聞きたいと思った。
 高田さんの報告で興味深かったことは、イタリアでは子どもたちでも実際の試合に即した練習をしている、ということだった。実際にゲームでぶつかる場面を作って練習をしているが、個々の技術だけを繰り返し練習する場面は見なかったという。一つ一つの部品を磨いて組み上げるのではなく、組み上げたもの全体を磨くということだろうか?

◇古沼貞雄さんも参加
 今回の月例会には、かつて帝京高校の監督として、高校選手権で6度優勝を成し遂げた古沼貞雄さんが参加してくださった。そこで古沼さんにも、お考えをうかがった。
 高田さんと古沼さんでは立場が違う。
 高田さんは普通の町の子どもたちがサッカーを楽しく、上手にプレーできるようにするために「育成」している。
 古沼さんは、帝京高校を全国で優勝させることを目的に「強化」してきた。しかし高校の先生だから、選手たちが卒業後、プロや大学の選手として、あるいは社会人として活躍できるように「育成」する必要もある。
 立場が違うから考えにも違いがあったのは当然である。「育成」にも、いろいろな意味があることを痛感した。


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サッカー日誌 / 2011年01月23日


国際審判員、丸山義行さんの努力


日本初のワールドカップ審判

日本サッカー史研究会1月例会
(1月17日・JFAハウス会議室)

◇東京五輪でデビュー
 日本サッカー史研究会の1月例会ではゲストに丸山義行さんを招いた。40年前、日本から初めてワールドカップの審判員に指名された人である。
 中央大学監督やJリーグの規律委員などを長く勤め、日本のサッカー界の裏事情にも通じている。だから、いろいろな話が出たが、ここではメキシコ70の審判員に指名されたときの事情を紹介しておこう。
 丸山さんは、1954年に大学を出ると、すぐ審判員になった。希望してなったわけではない。「各大学から一人は審判員を出せ」という当時の協会の方針で審判をさせられた。
 1964年東京オリンピックのときには国際審判員としてFIFAに登録されていた。地元開催だったので日本の国際審判員7人全員がオリンピックの審判員に指名された。これが世界的な大会へのデビューでワールドカップ審判員への道が開けた。

◇自費でワールドカップ見学へ
 「そのころはオリンピックが世界最高の大会だ。その審判を務めるのはたいへんなことだ」と思っていた。ところが、外国から来た人たちに「ワールドカップのレベルは、こんなもんじゃない」と教えられた。そのころの日本では、サッカー関係者の間でもワールドカップは、ほとんど知られていなかった。それで丸山さんは「ワールドカップを見なくては話にならない」と決心した。
 2年後の1966年にイングランドでワールドカップが開かれたとき、丸山さんは協会が募集した見学旅行団に参加した。協会から派遣されたのではない。自費で出かけたのである。
 さらに、その2年後、1968年メキシコ・オリンピックの審判員に選ばれた。日本代表チームが銅メダルを獲得した大会である。「準決勝に割り当てられるはずだったのだけれど、日本が勝ち進んだので、外されてしまった」という。

◇富士山五合目で走る
 メキシコ・オリンピックのとき、当時のFIFA会長、サー・スタンリー・ラウスに「2年後のワールドカップで選ぶから準備をしておくように」と言われた。
 ところが、その後、ソウルでアジアの審判員を集めたトレーニングが行われたときに呼ばれなかった。そこで自費でソウルへ飛んで「押しかけ」で参加した。
 メキシコシティは標高2000メートル以上の高地である。メキシコW杯の審判に指名されると月に1度、富士山の五合目に登って走り、薄い空気に慣れるトレーニングをした。
 丸山さんの長い審判生活は、みなボランティアである。ワールドカップやオリンピックでの費用はFIFAが負担するが事前の準備は自己負担だ。国内の試合で笛を吹いても、報酬は出ない。いまでは、日本の審判員のレベルや待遇も、当時とは比較にならないほど向上しているが、その基礎に先駆者の努力と苦労があったことを改めて認識した。


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サッカー日誌 / 2011年01月19日


高校サッカー2010(下)


総括:レベル接近とスタイル多様化

12月30日~1月10日、試合日7日
東京・国立競技場など首都圏4都県9会場
 全国大会出場:都道府県代表48校(東京2校)
 高体連サッカー加盟校4,185校、予選参加3,778校

◇初優勝は6年連続
 滝川二は初優勝だった。2005年度の野洲(滋賀)から6回連続初優勝が続いている。高校サッカーの多様化と全国的なレベル接近を示しているということができる。
 Jリーグができてから、U-15の優秀なプレーヤーがクラブ・ユースにいくようになった。そのために、高校はいい素材を集められなくなった。だから高校のレベルが下がった。それで新しいチームが勝つようになった。そういう説がある。
 そうかもしれないが、力が落ちたのは、かつての優勝争い常連校だろう。全国から優秀な中学選手を集めて鍛えていた。そういうチームは素材を集めにくくなった。しかし、他の多くの高校チームのレベルは上がっているのではないか? それが初優勝6年連続につながっているのではないか? 
 Jリーグが刺激になって、サッカーを志す子どもたちが増え、テクニックのいい少年が出てきた。そういう選手によって新しいタイプの高校チームが生まれてきたのだと思う。

◇技術重視のチームが台頭
 プレーのスタイルも多様化している。
 かつては、運動能力の高い選手を集め、練達の先生が鍛えて、スピードと体力と監督の用兵で戦うチームが強かった。そうでなければ短期間の連戦を勝ち抜けなかった。
 しかし、流れは変わりつつある。今回の大会では、選手たちのテクニックとアイデアを生かして、それぞれ個性のあるチーム作りをしてきたところが目に付いた。久御山、立正大淞南などである。
 決勝に進出した久御山の松本悟監督は「野洲、静岡学園などを見てきて、ボール扱いの巧いチームが勝つと信じてきた。(京都の府立高なので)限られた地域の、限られた選手層のなかからしか部員を集められないが、いい選手を育て、巧くして勝てるように、指導を続けたい」と語っている。
 その志はいい。しかし、高校3年間だけで、それを成し遂げ、短期決戦の大会で勝とうとするのであれば、かなり難しい課題だろう。

◇高校スポーツ変革のとき
 少年サッカーでボール扱いのテクニックを身に付けた生徒が入ってくる。その生徒たちを、さらに「巧く」して技術を生かした試合をするようにチーム作りをする。それが、いまの高校スポーツの環境のなかで、できるだろうか。
 夏の高校総体も、冬の高校選手権も、短期集中の勝ち抜きトーナメントである。その予選も多くは勝ち抜きトーナメントである。「負ければおしまい」だから、勝ち進まない限り試合数は非常に少ない。「巧さ」は、いい試合の経験を重ねることによって磨かれるものだが、大多数のチームは、その機会を得られない方式である。勝ち進んだとしても連日の試合で疲労が蓄積する。いきおい「巧さ」よりも体力勝負になる。勝ち抜きトーナメントばかりの方式は「巧さ」を伸ばすには向いていないのではないか?
 選手たちのプレーが変わり、チームも多様化している。それに対応して、高校サッカーの根本的な変革を考えるときに来ていると思う。


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サッカー日誌 / 2011年01月18日


高校サッカー2010(中)


ともにPK戦で決勝に進出
準決勝
久御山(京都)2対2(PK) 流経大柏(千葉)
滝川二(兵庫)0対0(PK) 立正大淞南(島根)
(1月8日 東京・国立競技場)


◇「4校優勝」の価値がある?
 第89回高校選手権の準決勝が2試合ともPK戦になった。「珍事」である。
 PK戦は次の試合に進出するチームを決めるための便宜的手段であって、サッカーの勝負を決めるものではない。かつては引き分けのときは抽選で「次回へ進む」チームを決め、決勝戦が引き分けのときは「両校優勝」としたこともあった。
 そういう考えをとれば、準決勝2試合が引き分けなら「4校優勝」の価値がある。ともあれ、全国的なレベル接近を示しているということはできるだろう。
 ただし、かつては延長戦をした上での「抽選」だったが、現在は延長戦をしないで、いきなりPK戦である。延長戦があれば勝負がついていたかもしれない。
 PK戦の結果、久御山と滝川二が残った。近畿勢同士の決勝戦は69回ぶりということだが、第20回大会は1938年度、戦前の旧制中等学校大会のころで、現在と比較する基準にはならない。
 
◇技の久御山、力の流経大柏に引き分け
 東京・国立競技場で行われた準決勝2試合。快晴無風の土曜日で観衆も多く、すばらしい条件だった。
 久御山の試合を見たのは初めて。その個人技重視の試合ぶりは面白かった。高校チームのプレースタイルが多様化していることを改めて認識した。
 久御山の一人ひとりの運動能力は、際立って良いようには見えなかった。府立高校なので全国から優秀な素材を集めることができる立場ではないようだ。しかし、どの選手もボール扱いに自信を持っていた。流経大柏の選手たちが中盤で厳しく詰めてくる。それを臆するところなく、落ち着いてかわして味方へつなぐ。そういうテクニックのある選手を地元京都で集められることに、日本のサッカーの底辺の厚みを感じた。
 流経大柏は、全国のクラブや中学からタレントを集めている。スピードがありシュートは力強い。しかし2度にわたってリードされ、終了間際に同点にしたがPK戦で消えた。

◇立正大淞南、痛恨の逸機
 滝川二対立正大淞南は、ともに守りが目立った試合で0対0の引き分けになった。
 立正大淞南は、ゴールキーパー三山大樹とボランチの稲葉修士が守りで奮戦し、攻撃でも何度かチャンスを作りながら攻めきれなかった。とくに終了間際、加藤大樹が相手の最後の攻勢の裏側に抜け出し、ゴールキーパーまでかわしながらシュートを外したのは痛恨の逸機だった。
 立正大淞南はPK戦でも勝機を逃した。先攻の滝川二の7人目が外し、次の淞南の7人目が決めれば決勝に出られるところだったが、ゴールキーパーに止められ、9人目が外して涙を呑んだ。
 立正大淞南は、大阪など他県から選手を集めているが、都市圏の有名校に行けなかった選手が多いという。そういう選手でチームとしてのまとまりを重視したチーム作りをしている。
 滝川二は、チーム力としてはまさりながら国立競技場の雰囲気にのまれて力を出し切れていないようだった。精神面でのしぶとさがないのは、高校チーム共通の欠点である。

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