サッカー日誌 / 2009年01月30日


岡田監督の「コンセプト」倒れ


アジア杯予選
バーレーン 1対0 日本
(1月28日・マナマ)


★朝日・忠鉢記者のレポート
 日本代表がいいところなく敗れたアジア・カップ予選のバーレーン戦について、朝日新聞の忠鉢信一記者が1月30日付の朝刊に書いていた記事は興味深かった。
 「相手の守備がそろっているところへ突っ込んでは逆襲された」のは「練習で繰り返していた通りの攻め」だった。そして「結果も練習通りだった」という。
 つまり選手たちは、岡田監督の考え通りにプレーしたということである。また、練習のときにも、その攻めはうまくいっていなかったのだが、本番でも同じことをさせて失敗したことになる。
 忠鉢記者のレポートが的を射ているのかどうかは、現地で練習も試合を見たわけではないから、なんともいえない。しかし他紙の記事の多くが岡田監督の談話をもとに表面的な論評をしていたのにくらべて異色だった。
 
★「突っ込み」のある記事
 練習を他社の記者とともに見ていたのだとすれば、忠鉢記者の目のつけどころが独特だったといえるだろう。非公開の練習のときの話だとすれば練習の内容を選手から聞き出したと推測できる。忠鉢記者に取材力があったということになる。
 内容が正しいかどうかは別として、新聞記者の仲間では、こういう記事を「突っ込みがある」という。取材対象の内側に踏み込んでいる記事である。
 岡田監督は「どんな相手にも変わらないコンセプト」を掲げている。しかし試合には相手がある。相手の出方によって臨機応変に戦い方を変えられないのでは「コンセプト倒れ」になる。
 バーレーンは「岡田監督のサッカー」を十分に研究していたようだ。激しいプレスで、日本のパスによる攻めを封じ、ロングボールでサイドバックを狙ってきたという。

★論評は記者の腕の見せ所
 東京の一般紙にとって、バーレーンとの時差6時間は都合が悪い。朝刊最終版の締め切りが午前1時ころなので、試合の前半くらいまでしか間に合わない。だから29日付朝刊では「日本が1点リードされる」までしか入らなかった。結果と試合経過は、29日付の夕刊に掲載された。
 夕刊は紙面が限られている。また夕刊を読まない読者もいる。だから30日付の朝刊用にはさらに詳しい記事を掲載する。結果と経過は夕刊に載っているのだから、試合の翌々日付の朝刊の記事は既報のニュースと重複しないように評論が中心になる。
 というわけで、朝刊用の原稿は記者の腕の見せ所である。しかし、前日の朝刊に試合途中までの経過を送り、試合終了後に夕刊用のニュースを送り、そのあとに追加取材をして翌日付朝刊用の論評を書かなければならない。なかなか、たいへんな仕事ではある。

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サッカー日誌 / 2009年01月23日


熊本の日本代表戦で見たJリーグ効果


アジアカップ予選A組
日本 2対1 イエメン (1月21日・熊本)

★ハンデを埋める選手層の厚み
 熊本で行われたアジアカップ予選で、日本代表チームはベストの布陣ではなかった。欧州組を呼べなかったし、ガンバ大阪の選手は加えなかった。ガンバの選手は12月から元日にかけて、クラブW杯、天皇杯と連戦が続いていたので休ませたのである。
 その上に、センターバックの選手が次々にケガで離脱した。闘莉王と中澤佑二は鹿児島・指宿の合宿のはじめから不在、合宿中に阿部勇樹と森重真人が離脱した。
 しかし、代わりに起用された選手たちが、チームの中で、ちゃんと役割を果たしたのを見て「日本も選手層が厚くなったものだ」と、ぼくは感心した。
 センターバックの穴を埋めた寺田周平は33歳、高木和道は28歳だが、代表に呼ばれたのは昨年から。30歳前後になってから代表に呼ばれるなんて、10年くらい前までは考えられなかったように思う。

★若手も次つぎに登場
 23歳以下の若手は4人が先発した。その中で、もっとも注目を集めていたのは岡崎慎司だった。熊本スタジアムのスタンドに名前を書いた大きな横幕が出ていた。ファンはよく知っている。期待通り1ゴール、1アシスト。次つぎと新しい戦力が登場するのも、日本のサッカーの広がりと厚みを示している。
 ベテランにしろ、若手にしろ、国際試合の経験が少なくても代表チームに溶け込めるのは、Jリーグでの経験のおかげだと思う。欧州諸国にくらべればリーグのレベルは低いかもしれないが、各チームにそれぞれ外国人選手もいて、速い相手、大柄な相手との対戦に慣れている。外国の新しいスタイルのサッカーも知っている。
 岡田監督は「代表合宿の成果だ」とい言うかもしれない。でも、短期の合宿で岡田スタイルに合わせることができるのはJリーグ効果のおかげではないか。

★全国リーグに広がった選手層の厚み
 次のアジアカップ予選は1月28日、敵地でのバーレーン戦。欧州組も一部が加わるし、センターバックの中澤や遠藤保仁らのガンバ大阪勢も復帰する。岡田監督にしてみれば、いろいろなタレントを「選り取り見取り」である。
 このような全国リーグに広がった選手層の厚みは、アジアの中では日本が一番である。ワールドカップ予選にしろ、アジアカップにしろ、岡田監督の目指すサッカーでアジアは勝ち抜けるはずである。
 ただし、他のアジアの国は「格下」だというようなマスコミの表現に惑わされないようにしたい。格下と侮って勝てるような相手は、ほとんどない。今回のアジアカップに予選から出場しているのは、昨年のアジアカップでオシム監督がアジアのベスト3を逃したツケであることを忘れてはならない。


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サッカー日誌 / 2009年01月22日


後退守備を攻め崩せない2つの理由


アジアカップ予選A組
日本 2対2 イエメン (1月21日・熊本)

★コーナーキックならYes, we can !
 熊本で行われたアジアカップ予選A組の第1戦は、米国のオバマ大統領就任式と同じ日だった。試合が終わった後で、ぼくは記者仲間に「Yes, we can,when we have cornerkicks だな」と冗談を言った。「われわれは、やれるぞ!」は、大統領選挙のときのオバマ陣営のスローガンである。日本代表はイエメンに2対1で勝ったが、日本の2点はどちらもコーナーキックからだった。「日本もやれるぞ。コーナーキックがあればな」というわけである。
 シュート数は27本対1本だった。したがって守備を固める相手を日本は押しまくりながら攻め崩せない。前半7分にショートコーナーから田中達也が食い込んで送球したのを岡崎慎司に合わせて早ばやと先取点を上げたが、後半2分に同点にされ、引き分けにされても仕方がないくらい攻めあぐんだ。後半21分の決勝点はコーナーキックから2つのヘディングをつないだものである。

★イエメンは徹底的な守備固め
 岡田監督のめざす日本代表チームの攻めのスタイルは、速いパスとサイドへの展開である。動きながら速いパスをつないで相手を引き寄せ、サイドへの攻め上がりにボールを出してゴール前へクロスをあげる。この日も、そういう攻めだった。
 イエメンは徹底的な後退守備だった。ペナルティエリアへ、ほとんど8人が下がっている。日本が速いパスをつないでも引き出されないし、その中に切り込んでも人数の網でからめとる。
 前へ出て来ないから、日本の中盤プレーヤーは自由にボールを扱える。そこでペナルティエリアの外から25~30㍍のシュートを中村憲剛などが試みた。ミドルシュートは、入らなくても相手の守りを引き出すのに役に立つはずが、それでもイエメンは前に出てこない。遠くからのシュートが、たまたま入れば仕方がないという態度である。

★中盤の配置を変えてみたが・・・
 ゴール前の厚い守備を攻め破れない原因が二つあった。一つは攻めに緩急がないことである。速いパスを1本調子でつないでも相手は揺さぶれない。外側でゆっくりつなぎ、チャンスを作ったらすばやく攻め込む。そういう工夫がない。
 もう一つは、若い選手が得意の足技で突破しようとして守備網に引っ掛かったことである。19歳の香川真司がその代表格だった。個人の足技による突破も必要だが、3人がかり4人がかりで、つきまとってくるのを、かわしきるのは難しい。
 後半立ち上がりに同点にされて、岡田監督は中盤の配置を並べ変えた。前半は中村憲剛と青木剛を守備的に横に並べたボックス型だったのを、憲剛を前に出してダイヤモンド型にしたのである。「あまり策は打ちたくなかったのだが、選手たちが自分たちで対応できないようだったから指示を出した」という岡田監督の話だった。

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サッカー日誌 / 2009年01月13日


平木隆三さんの思い出(下)


努力型のテクニシャン

★バイシクルキック第1号
 オーバーヘッドキックという蹴り方がある。バイシクルキックともいう。背中から倒れるようにジャンプし、両足を空中で交互に振ってボールを後方に蹴る技術である。現在では子どもたちでもやっているが、1960年代ごろには日本では見たことがなかった。確かな記憶ではないが、ぼくが見たのは、1966年のワールドカップで、アルゼンチンのペルフーモがしたのを映画で見たのが最初のように思う。
 「日本でバイシクルキックを最初にやったのは誰ですかね?」と、日本代表チームの監督だった長沼健さんに訊いたことがある。「そりゃペラじゃろう」。ケンさんは即座に答えた。ペラは平木隆三さんの愛称である。
 「そうだろうな」と、ぼくは思った。ぼくのイメージでは、ペラさんは器用で運動能力の高いテクニシャンだったからである。

★俊敏で運動能力は高かった
 それで、当時の日本代表選手を指導したクラマーさんに「あのころ、いちばんテクニックのいいプレーヤーは、平木だったでしょう」と訊いてみた。
 「とんでもない」という顔つきでクラマーさんが言った。「彼はむしろ不器用だったよ」。
 平木さんは、フルバック、いまでいう守備ラインのサイドのプレーヤーとして、すばやくタックルに入り、ジャンプも高かった。スタンドから観戦している眼には、そう見えた。しかし、ボール扱いのうまい、いわゆる「テクニシャン」ではなかったのかもしれない。
 当時の日本のプレーヤーのボール技術は、現在の水準からみれば、かなり劣っていたから、平木さんだけが不器用だったわけではない。また、守備ラインのプレーヤーが前線まで攻めに出るようなことは、ほとんどない時代だったから、ドリブルのうまさがフルバックのプレーヤーに、それほど求められたわけではなかった。

★世界選抜のマネジャー
 長沼ケンさんの話とクラマーさんの意見とぼくの印象を合わせて考えてみると、平木さんは「努力のテクニシャン」だったのではないかと思う。素質と運動能力に恵まれてはいたが、当時の日本のテクニックのレベルは、欧州の選手たちにくらべると、かなり劣った。1964年の東京オリンピック前、クラマーさんのおかげで欧州のサッカーに接することができるようになったとき、平木さんは積極的にそれを身につけようとした。それがバイシクルキックの練習にも結びついたのだろう。
 クラマーさんは、平木さんの事務能力と気配りと努力を非常に高く評価していた。1968年世界選抜チームの監督をしたとき、平木さんをマネジャー(セクレタリー)に指名して連れて行った。平木さんが亡くなる前年、3度来日したが、そのたびに第一声は「平木は大丈夫か?」だった。

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サッカー日誌 / 2009年01月09日


平木隆三さんの思い出(中)


新しい指導法に対する探求心

★クーバー方式の紹介
 「ウイール・クーバー」を最初に日本に紹介したのは、ぼく(牛木)である。1983年の秋ごろだったと思う。オランダから電話がかかってきた。ヴェルディの前身である読売サッカークラブで監督を勤めたことのあるファン・バルコムからだった。
 「おれの師匠が新しい少年サッカーの指導法を工夫して、いまヨーロッパでは評判なんだ。日本に紹介したいから面倒をみてくれ」
 オランダの有名なコーチであるクーバーは、その年の12月に日本に来た。トヨタカップを取材して原稿を書くということで往復旅費はオランダのサッカー雑誌が出したが、日本に残って指導する1週間の滞在費は、ぼくがボーナスをはたいて負担することになった。
 しかし、問題はお金ではなかった。問題はクーバーを受け入れて、その指導法を学ぼうとする人たちを探すことだった。

★ケンもホロロのサッカー協会
 もちろん、まっ先に日本サッカー協会に行って「かくかく、しかじかだから、クーバー・コーチの講習会を開いてくれ」と頼んだ。しかし、協会はケンもホロロだった。やむを得ず、ぼくは個人的なコネを頼りに、クーバーの指導を受けてくれるところを探した。
 都心のデパートに勤めていた友人がいたので、そのデパートの屋上で講習会を開いた。新聞記者だったから紙面を利用してPRはしたが、協会が協力してくれないのだから参加者は少ない。
 そのデパートの屋上の講習会を平木隆三さんが見に来た。平木さんはサッカー協会の事務局に勤めていた。ぼくが協会首脳部を相手に苦戦しているのを横目で見ていて、同情して見に来てくれたのかもしれない。でも、ぼくは新しい指導法に対する好奇心、探求心が平木さんを動かしたのだと信じている。

★的確なクーバー評価
 平木さんはデットマール・クラマーの愛弟子だった。1968年メキシコ・オリンピック直後に世界選抜とブラジル代表との試合がリオデジャネイロで行われたとき、世界選抜の監督をしたクラマーは平木さんを世界選抜のマネジャー(セクレタリー)に指名した。クラマーが指導したFIFAコーチング・スクールでも平木さんがアシスタントだった。日本でクラマーの指導方式が普及したのには平木さんの功績が大きい。
 このように「クラマーの指導法」の伝道師のような役割を果たしていながら、クラマー方式以外の新しい指導法も積極的に学ぼうとした。だから、クーバーの最初の来日のとき、ぼくの企画した講習会に顔を出してくれたのだと思う。
 クーバーの指導法を見て、平木さんは「子どもたちや初心者への指導法として、非常にいいですね」と感想を述べた。まったく的確な評価だったと言えるだろう。

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サッカー日誌 / 2009年01月07日


平木隆三さんの思い出(上)


クラブ時代への基礎を準備した改革

★フィールドの外での功績
 平木隆三さんが1月2日に亡くなられた。77歳だった。ご自宅のある愛知県豊明市の斎場で4日に通夜式、5日に告別式が行われた。
 新聞に載った訃報では、メルボルン、東京、メキシコの三つのオリンピックでの選手、コーチとしての業績と名古屋グランパスエイトの初代監督としての経歴が紹介されていた。その経歴は、日本サッカー史上、右に出る者のない輝かしいものであったといえるだろう。
 斎場には高校体育連盟や各地の大学、高校からの花輪も数多く並んでいた。平木さんは、全国各地のチームの技術指導にも数多くの足跡を残している。普及面での功績も大きなものがあった。
 しかし、あまり知られていないことだが、平木さんはフィールドでの活躍以外にも、重要な仕事を残している。

★天皇杯参加資格を全国に拡大
 1968年のメキシコ・オリンピックを前に、平木さんは古河電工を辞めて日本サッカー協会の事務局に入った。サッカーの指導に専念したいというつもりだったのだろう。しかし、当時のサッカー協会の事務局は、せいぜい6~7人のスタッフだったから技術指導だけに飛びまわれる状況ではなかった。職員として協会内のさまざまな事務も分担した。
 事務職員として、平木さんは1970年代に重要な改革を二つ手がけた。
 一つは天皇杯の改革である。
 そのころ日本リーグ(社会人)と大学チームのトップクラスしか参加できない方式だったのを、1971年~1972年に、全国のおとなの加盟チーム全部が参加できるよう本来の姿に改革した。それによって地方のクラブチームの可能性がふくらんだ。
このことについては、協会の雑誌118号(1973年)に平木さん自身が報告している。

★年齢別登録制度への改革
 平木さんが事務局員として推進したもう一つの改革は「年齢別登録制度」である。
 そのころのチーム登録は「学校別」になっていた。たとえば第2種は「単独の大学学生をもって構成する団体」、第3種は「単独の高等学校生徒をもって構成する団体」というようになっていた。「これを年齢別に変えるべきだ」と、1969年8月に開かれた第2回クラブ育成全国協議会で、神戸FCの加藤正信さんが提案した。しかし、日本のサッカーが学校中心に発展してきたことへのこだわりがあって、協会の首脳部はなかなか踏み切ろうとしなかった。それを、平木さんが、こつこつと原案を作って改革にこぎつけた。たとえば、第1種は「年齢制限なし」、第2種は「18歳未満の選手により構成されるチーム」というように変えたのである。
 登録が学校単位に限られていては地域のクラブは育たない。年齢別登録の採用は、クラブの可能性を広げ、現在のJリーグの理念の地固めをした改革だった。

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サッカー日誌 / 2009年01月06日


ガンバ大阪、過密日程をしのいだ優勝


1月1日、天皇杯決勝(東京・国立競技場)
ガンバ大阪 1対0(延長) 柏レイソル

★両監督の苦心が見どころ
 快晴、おだやかな日和の元日を天皇杯決勝で楽しんだ。延長後半最後の土壇場まで双方無得点、守り合いの試合だったが、両監督の苦心がうかがえて、なかなかの好試合だったと思う。
 ガンバ大阪はトヨタ・クラブ・ワールドカップに引き続く連戦で、選手たちは疲れ果てていた。故障者も多い。西野監督が「野戦病院」といっていたほどだ。運動量にものを言わせて、中盤でプレスをかけながら勝機を求めるという得意の戦法をとれない状況だった。
 柏は逆に、相手の疲労につけこんで運動量で圧倒したいところだった。
 攻めの切り札であるフランサと李忠成を先発メンバーに入れなかったのは「プレスをかけられるメンバー」で前半を戦い、相手を追い込んで先取点を奪おうという石崎監督の狙いだったらしい。

★勝因は西野監督の「がまん」
 結果論ではあるが、ガンバの勝因は西野監督の「がまん」だったのかもしれない。
 前半のシュート数は6対4と柏のほうが攻勢だったが、そこを無失点にしのいだのが、よかった。
 後半、柏の石崎監督が先に勝負に出た。後半開始時の交代でフランサを出し、後半13分に李忠成を出す。フランサからのパスからの組み立てで、柏の攻めに変化が出てきたが32歳のフランサ自身は労働量が少ない。
 西野監督のほうは、メンバーを変えなかった。ただ、同じメンバーの中で、中盤の前のほうにいた遠藤が下がり気味になり、橋本が前に出た。前半は橋本と明神で中盤の守りを固めていたのだが、遠藤自身が引き気味の位置から、攻めを組み立てることを申し出たのだという。後半のシュート数は8対3とガンバが盛り返している。

★延長に入ってから勝負
 西野監督が勝負に出たのは、延長に入ってからである。延長に入るときに播戸を送り出した。その播戸が延長後半、残り4分に決勝点を挙げる。ルーカスからのスルーパスが、遠藤-倉田と繋がり播戸のシュートがこぼれたのを播戸が再度のシュートで決めた。
 終始攻めの軸だった遠藤とルーカス、延長に入ってから繰り出した播戸と倉田が決勝点に絡んでいる。西野監督が狙った筋書き通りになった。
 2008年度の天皇杯は、ガンバ大阪が過密日程をしのいで優勝した大会として記憶されることになるのかもしれない。
 アジアのクラブ選手権をとり、クラブ・ワールドカップの準決勝で、マンチェスター・ユナイテッドとの対戦を経験し、天皇杯を準決勝、決勝ともに延長戦で戦い抜いた。これは西野監督の大きな実績として記録しておくべきだろう。

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